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土居通夫 : ミニ英和和英辞書
土居通夫[どい みちお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つち]
 【名詞】 1. earth 2. soil 
: [つう]
  1. (adj-na,n) (1) connoisseur 2. authority 3. (2) counter for letters, notes, documents, etc. 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

土居通夫 : ウィキペディア日本語版
土居通夫[どい みちお]

土居 通夫(どい みちお、1837年5月25日(天保8年4月21日) - 1917年大正6年)9月9日)は、幕末宇和島藩士明治時代実業家、大阪財界指導者、衆議院議員
==略歴==
伊予宇和島藩士の大塚南平祐紀の子として生まれる。4歳のとき藩士・松村彦兵衛清武の養子となり保太郎と改名した。少年時代には三好周伯に書道を学び、藩校・明倫館で大阪の越智士亮の弟子である金子春太郎に漢学を学ぶ〔「通天閣: 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯」P24〕。
12歳からは、窪田清音から免許皆伝を許可された窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に入門、竹馬の友である児島惟謙と共に剣術修業に励み、16歳正月に初伝目録を授与された。同じころ壱岐三郎太夫に越後流軍学、不川顕賢に算数を学ぶ〔三百藩家臣人名辞典P451〕〔「通天閣: 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯」P24、43〕。17歳で元服、彦六と改めた。
この頃の宇和島藩は海外への関心を強め、高野長英を匿って、蘭学の師に迎えていた。やがて長英に替わり緒方洪庵の高弟である村田蔵六に兵書、砲台の設計を翻訳させていた。家が近かった蔵六の門人である立田春江と親しくなり、長英の門人である大野昌三郎とも交友があったことから蘭学にも関心を持つが、途中で諦める〔「通天閣: 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯」P25〕。
22歳で窪田派田宮流の免許皆伝を授与された後、1861年(文久元年)に田都味道場へ坂本龍馬がやってきて、道場に他流試合を申し込まれている。この時に龍馬から「脱藩すればいい、こんな城下で何ができるのか。」と言われる。この時は驚いたが後に脱藩する行動のきっかけとなった〔司馬遼太郎「街道をゆく14 南伊予・西土佐の道」P186~187〕。
23歳で養家を去り、父の母方の姓である土居を名乗る〔「通天閣: 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯」P28~29〕。
1865年(慶応元年)、勤皇を志して脱藩、土肥真一と改名して大坂に出る。伯父の紹介で大身代の金貸し・高池三郎兵衛家を紹介され、用心棒として奉公、町内の夜景一切を任されるようになるが、剣だけでなく金銭出納の能力を発揮する。半分商人の剣客として大阪で評判になった頃、宇和島で匿われていた薩摩藩中井弘と再会したことがきっかけで勤皇運動に関わる。鳥羽・伏見の戦いにおいて土佐藩後藤象二郎配下で活躍、遠からず京が戦乱に巻き込まれるから、その時は宇和島藩邸に米を送ってほしいと、大津の米問屋で依頼する。戦いの後、この功を認められたこと、薩摩藩からの謹白書が出されたことで帰藩する〔「通天閣: 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯」P42~56〕。
王政復古後、宇和島藩主・伊達宗城が議定職外国係と大阪鎮台外国事務を兼務すると、外国事務局大阪運上所に勤務する。ここで外国事務局判事に就任した五代友厚の部下となったことが生涯の重要な方向付けとなる。1869年(明治2年)には大阪府権少参事となった。1872年(明治5年)、親友の北畠治房に誘われて司法省に出仕して兵庫裁判長、大阪上等裁判長を歴任、児島惟謙と再会する〔「通天閣: 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯」P83~86〕。退官までに井上馨伊藤博文大隈重信大久保利通らとの政界人脈を築くと同時に、住友家鴻池家ら大阪財界と関係を深めた〔「通天閣: 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯」P118~〕。
1884年(明治17年)、鴻池善右衛門が府知事・建野郷三へ事業再建のための人材紹介を懇願、建野が五代友厚に相談すると「土居通夫以外にありえない。」と進言される。これにより司法省を退官、鴻池善右衛門家の顧問となり諸事業に参画、「剣豪商人」と言われた〔司馬遼太郎「歴史の世界から」P103~〕〔大阪日日新聞 ">HREF="http://www.kotoba.ne.jp/word/大阪日日新聞" TITLE="大阪日日新聞">大阪日日新聞 〕。
1887年(明治20年)頃、大阪での本格的な照明を東京に倣ってガス灯にするか、電灯にするか有力者の間で対立が続く中、通夫は電灯への斡旋調整を行い、1888年(明治21年)、大阪電灯を設立して初代社長に就任、30年務める〔「電力人物誌: 電力産業を育てた十三人」pp.35 - 38〕。日本硝子製造、長崎電灯、日本生命大阪毎日新聞、大阪貯蓄銀行(現在のりそな銀行の源流の一つ)、明治紡績、阪鶴鉄道(現・福知山線)、大阪馬車鉄道→浪速電車軌道(現・阪堺電気軌道上町線)、宇治川電気、大阪染織、大阪土地建物、京阪電気鉄道など多くの企業の役員に就任した〔「近代大阪経済史」pp.233 - 235〕。堂島米穀取引所理事長、大阪銀行取引所理事長、日本電気協会会長、大阪実業協会会長を歴任する〔「通天閣: 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯」P118~〕。
1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙に大阪府第2区より立候補して当選したが、半年後の第4回衆議院議員総選挙で議席を失っている。1895年(明治28年)より大阪商業会議所会頭に22年間在任、近代大阪財界の基盤を固めた五代友厚亡きあとの大阪財界最有力指導者として活躍した。
特に1903年(明治36年)の第5回内国勧業博覧会誘致において、東京との激しい招致合戦に勝利、パリに飛びパリ万国博の仕組みを詳細に調査して成功に導いた功績が大きい。この博覧会の跡地に作られた新世界ルナパークに、周囲の猛反対を押し切ってパリのエッフェル塔を真似た通天閣を建設する。藤沢南岳によって命名された通天閣は、ルナパーク開発会社である大阪土地建物の社長であった土居の名前を入れる意図が含まれているとされる〔 - 通天閣。なお、通天閣の命名者である藤沢南岳は、大阪商工会議所に建立された土居の銅像に付された碑文の撰者にもなっている(外部リンクを参照)。〕。
1914年(大正3年)、電気、電灯、電鉄関係者の社交組織である中央電気倶楽部を創設。「中央」という名に、東京に対する当時の大阪財界人の気概を感じさせると今に伝えられている〔〕。1915年(大正4年)秋に勲三等旭日中綬章を受章〔。
1917年(大正6年)、京阪電気鉄道社長、大阪商業会議所会頭在任のまま死去。
大阪商工会議所前には「大阪財界中興の祖」として、初代会頭の五代友厚、10代会頭の稲畑勝太郎とともに、土居の銅像が設置されている〔大阪商工会議所ビル前の銅像について 〕。
児島惟謙とともに関西大学の創立にも関わるなど、教育・文化面でも活躍している〔〕。浄瑠璃竹本摂津大掾に師事、南画、囲碁、二畳庵桃兮に学んだ俳句も熟達しており、松木淡淡派を継いだ名門俳流「八千房」の八世八千房を継いだ時期があるなど、剣以外にも多芸多才で知られた。〔大阪日日新聞 ">HREF="http://www.kotoba.ne.jp/word/大阪日日新聞" TITLE="大阪日日新聞">大阪日日新聞 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「土居通夫」の詳細全文を読む




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