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緒方洪庵 : ミニ英和和英辞書
緒方洪庵[おがた こうあん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [お]
 【名詞】 1. cord 2. strap 3. thong 
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 
: [いおり]
 【名詞】 1. hermitage 2. retreat 

緒方洪庵 : ウィキペディア日本語版
緒方洪庵[おがた こうあん]

緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日1810年8月13日) - 文久3年6月10日1863年7月25日))は江戸時代後期の武士足守藩士)、医師蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
惟章(これあき)または(あきら)、公裁、号を洪庵の他に適々斎華陰と称する。

== 略年譜 ==

* 文化7年(1810年)7月14日、豊後国豪族豊後佐伯氏の流れをくむ備中佐伯氏の一族である備中国足守藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれる〔緒方富雄『緒方洪庵伝』第二版増補版(岩波書店、1977年)p4.〕。母は石原光詮の娘・キャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)。備中佐伯氏は佐伯惟寛(惟定の弟)の末裔と称した。8歳のとき天然痘にかかった。
* 文政8年(1825年)2月5日、元服して田上惟章と名乗る。10月、大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂に出る。
* 文政9年(1826年)7月、に中天游の私塾「思々斎塾」に入門。この時に緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、以後は緒方を名字とする。4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。
* 天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。
* 天保7年(1836年)、長崎へ遊学しオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学ぶ。この頃から洪庵と号した。
* 天保9年(1838年)春、大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。のち6男7女をもうける。
* 弘化2年(1845年)、過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し適塾を移転。移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え瓦町の塾では手狭となった為である。
* 嘉永2年11月7日1849年12月21日)、その6日前に京に赴き佐賀藩が輸入した種痘を得、古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。
* 嘉永3年(1850年)、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。牛痘種痘法は、牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方でもぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。
* 安政5年4月24日1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し牛痘種痘を免許制とした
* 文久2年(1862年)、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦した。12月26日「法眼」に叙せられる。
* 文久3年6月11日1863年7月25日)、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し窒息により死去。享年54(数え年)。
* 明治42年(1909年)6月8日、贈従四位

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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