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古墳文化 : ミニ英和和英辞書
古墳文化[こふん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふる]
 【名詞】 1. used 2. secondhand
古墳 : [こふん]
 【名詞】 1. ancient (mound) tomb 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
文化 : [ぶんか]
 【名詞】 1. culture 2. civilization 3. civilisation 
: [か]
 (suf) action of making something

古墳文化 ( リダイレクト:古墳時代 ) : ウィキペディア日本語版
古墳時代[こふんじだい]

古墳時代(こふんじだい)は、日本列島において古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する、考古学上の時期区分である。一般に、縄文時代弥生時代と対比して用いられる場合が多い。当然のことながら、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、古墳時代の時期区分にも僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、現在議論が大きく揺れ動いている。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。
前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳円墳八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。
西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれている。日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、王権が強化統一されていった時代と考えられている。古墳時代終末期に倭国から日本国へ国名を変更した。なお、ほぼ同時代を表している「大和時代」の呼称は、研究の進展によって一般的でなくなってきている。
== 概要 ==
この時代にヤマト王権の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀半ば過ぎには、出現期古墳が現れる。3世紀の後半には奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が現れ、4世紀中頃から末までの半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀(ソフ(層富)とも)の地に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれ、4世紀の後葉に河内平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。続く5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが、6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。これは、ヤマト王権の確立後、中央・地方の統治組織が出来上がり、より強力な政権へ成長したことの現れだと解されている。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられる。大王の墓は特別に八角墳として築造された。
対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出。新羅百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったとも解釈される広開土王碑文などから知られる。(高句麗と倭の戦争)5世紀には倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得たは、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字漢字)と仏教儒教がもたらされた。この時代の人々は土師器須恵器を用いた。青銅器も大陸から移入されたが、古代オリエント地域などと違って鉄器使用の年代と隔たりがないため実用に用いる機会に乏しく、性能に優れた鉄に取って代わられた。そのため青銅器は銅鐸など祭祀宗教用途に用いられるに留まっている。また、『隋書』によると、新羅百済は、倭国は珍物が多い国であると尊び、倭へ使い通わしているとの記述が存在する。
弥生時代からの小区画水田は依然として作り続けられているが、この時代の水田は東西・南北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになる。例えば、5世紀末から6世紀初めの岡山市中溝遺跡などがあり、水田の一筆の広さが150~200平方メートルで、弥生時代後期の水田の2~3倍の規模である。新たな水田造成技術の導入もみられ、新田開発が行われたと推定されている。屯倉の設定にはこうした新水田造成技術を導入して行われたと考えられる。〔狩野久「吉備の国づくり」 藤井学・狩野久・竹林栄一・倉地克直・前田昌義『岡山県の歴史』山川出版社 2000年 17ページ〕
古墳時代になると、王族や貴族の大型古墳、地方豪族の古墳、横穴墓などの集合墓、あるいは円筒埴輪棺など死者を埋葬する墓における階層化が目を見張るようになり、それに伴い被葬者の間で身体特徴の違いが見られるようになる。一番わかりやすい身長で比較すると、大型古墳の被葬者は一般に高身長でときに170センチ近くにも及ぶ被葬者がいた。各地豪族墓の男性被葬者の平均は160センチぐらいであり、横穴墓に埋葬された者はそれを下回り、158センチほどである。古墳時代の人骨の一番の特徴は縄文人弥生人の骨格で見られた骨太さ・頑丈さが目立たなくなったことである。この傾向は、大型古墳の被葬者などで非常に顕著であり、横穴墓や円筒埴輪棺などの常民墓の埋葬者ではさほどでもなく、縄文人、弥生人と大型古墳の被葬者との中間である。顔立ちについては縄文人で一般的であった鉗子状咬合は全体の70%ほどで見られるが、大型古墳の被葬者では、のちの日本人で一般的な鋏状咬合が多くなる。また、下顎のエラの部分の前ほどにある凹み(角前切痕)が多くみられるようになる。さらに、顎の先が細く尖り気味の下顎骨を持つ者や第3臼歯が萌出しない者の割合が多くなる。これらの下顎骨の骨細化や退縮減少に伴う顔面骨の変化は、生活様式の変化、特に食物の硬さが減じたことに起因する。また階層により生活レベルの違いが大きくなり、階層性が目立つようになったと考えられる〔片山一道『骨が語る日本人の歴史』ちくま新書 2015年〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kofun period 」があります。




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