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厨川柵 : ミニ英和和英辞書
厨川柵[くりやがわのさく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くりや]
 (n) kitchen
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [さく]
 【名詞】 1. fence 2. paling

厨川柵 : ウィキペディア日本語版
厨川柵[くりやがわのさく]
厨川柵(くりやがわのさく)は、岩手県盛岡市の西にあったと言われている。俘囚と言われる豪族安倍氏が築いた勢力範囲最北の古代城柵である。衣川柵などと並び、安倍氏の重要拠点であった。「厨川」は、中世から近世には栗谷川栗屋河とも記された。河川の合流点付近にあり、約10mの断崖絶壁の自然要塞上にあったとも伝えられる。所在地は広範囲にわたるとも見られ、明確ではない。現在の岩鷲山天昌寺(盛岡市天昌寺町)のある天昌寺台地が中核部として有力視されるが、農地化・宅地化による地形の変化、度重なる河川の流動により未確定である。昭和56年(1981)以後に推定地域の発掘調査が行われたが、安倍氏の柵跡であるという確証は得られていない。
== 沿革 ==
厨川柵は、平安時代の奥六郡のうちの岩手郡に存在した安倍氏の柵の一つで、現在の岩手県盛岡市の西方にあったと考えられている。その範囲は現在の通称「館坂」以西、盛岡市天昌寺町から北天昌寺町、前九年町まで広域にわたると見られていた。旧地形では天然の要害を形成する小河川や沢の痕跡が見られることから、現在の曹洞宗岩鷲山天昌寺を中心とする里館遺跡がその中核であったと推定され、里館遺跡が厨川柵、北東約800mにある安倍館遺跡(盛岡市安倍館町)が「嫗戸柵」として、一連の柵を形成したと考えられていた。昭和56年度(1981)以後の発掘調査では、里館遺跡も安倍館遺跡も、鎌倉時代以後の工藤氏の城館跡であることが明らかとなった。また近年、平安時代土器の研究が深化し、安倍氏、清原氏の時代の土器様相が明らかになってきた。里館遺跡および安倍館遺跡においても、この種の土器は確認されていない。
盛岡市厨川地区(旧厨川村)に隣接する、岩手郡滝沢村大釜地区では、安倍氏時代の土器を出土する遺跡が2か所確認されており、厨川柵や嫗戸柵の究明には、対象範囲を拡げる必要がありそうである。
厨川柵は安倍頼時の次男安倍貞任が拠点とした。よって安倍貞任は「厨川次郎」を名乗った。前九年合戦(前九年の役)において源頼義らとの最終決戦場となり、安倍氏の勢力はここで滅んだ。その後、宗任、家任、則任は降伏して九州へ流刑に処され、重任は殺された。この合戦で斬首された藤原経清は安倍頼時の娘婿であり、経清の長子清衡は母とともに清原氏に入り成長し、後三年の役の後、平泉を開府し奥州藤原氏の祖となる。
安倍氏滅亡後、奥六郡清原氏の所領となり、さらに安倍氏の血を引く奥州藤原氏の支配下となる。岩手郡は奥州藤原氏の一族「樋爪氏」が所管したと考えられている。
文治5年(1189)源頼朝が奥州藤原氏を討ち、奥州を平定した。頼朝は父祖による安倍氏追討以来の先例にならい、厨川を訪れ、戦功のあった工藤小次郎行光を岩手郡地頭に任じた(『吾妻鏡』)。厨川工藤氏は厨川を拠点に岩手郡を統治し、「岩手殿」と呼ばれた。工藤行光は伊豆の御家人とされているが、甲斐国の工藤氏一族という説もある。
また源頼朝の命に拠り、一帯の精神的支柱である岩手山を神格化した「岩鷲山大権現」の大宮司となり、安倍氏が厨川柵に祀っていた祈願所を継承した。阿弥陀・薬師・観音の祭祀権を掌握し、名実共に当地の支配者となった。この祈祷所が現在の「曹洞宗岩鷲山天昌寺(かつての天台宗岩鷲山天晶寺)」に相当する。天昌寺には、栗谷川家の墳墓が現存する。
のち、南北朝対峙争乱のさいに北朝方につき、三戸南部氏により地頭職を停止され、近郊10ヵ村を領知するに至ったが、厨川(栗谷川)氏は南北朝期以後も有力氏族との婚姻を重ね、最終的には南部家の家臣に組み込まれていった。天正20年(1592年)、「諸城破却令」により厨川城は廃城された。
現在、安倍館遺跡に見られる濠跡は、この「厨川(栗谷川)城」の遺構であり、工藤氏が司った時代のものと考えられている。北上川と雫石川の合流点以北、現在の盛岡駅以北はかつての「厨川村」であり、旧名で上厨川(盛岡市西部)、下厨川(盛岡市北西部)に分かれる。なお、盛岡城築城のとき御菜園(盛岡市菜園地区)も、かつては厨川であったが、北上川改修により城下に組み入れられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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