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北條貞時 : ミニ英和和英辞書
北條貞時[きた, ほく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 

北條貞時 ( リダイレクト:北条貞時 ) : ウィキペディア日本語版
北条貞時[ほうじょう さだとき]

北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。
8代執権北条時宗嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。
== 生涯 ==

=== 誕生と元服 ===
文永8年12月12日(1272年1月14日)、北条時宗の嫡男として鎌倉に生まれる。幼名幸寿丸
建治3年(1277年12月2日元服して貞時と名乗った〔森茂暁 「足利将軍の元服 -足利義満より同義教に至る-」(所収:森茂暁『中世 日本の政治と文化』 思文閣出版、2006年)。〕〔山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.164)。〕。この様子は『建治三年記』の同日条に得宗家嫡男の元服の貴重な記録として残されている〔。この時の烏帽子親は明確には示されていない〔森茂暁 「足利将軍の元服 -足利義満より同義教に至る-」(所収:森茂暁『中世 日本の政治と文化』 思文閣出版、2006年)より。理髪役は叔父の北条宗政烏帽子を持参する役目は安達泰盛が担ったこと等、他の担当者は『建治三年記』に明確に示されている(森茂暁もこれについて言及している)。〕が、「二棟の御所西の御格子に上らる。西の御侍」の記述から、元服が行われた場所が二棟御所の西侍〔二棟御所とは幕府の御所の南西部分にあたる二棟造の建物のことであり、「西侍」は北条泰時の元服時に御家人が祇候していた場所、また大伯父(泰時の嫡孫)・経時や父・時宗の元服が行われたことのある場所であった(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.168-169))。〕であり〔山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.169)。〕、「越州刻限を申さる。その後出御〔将軍が目下の者の前におでましになること。『デジタル大辞泉』・『大辞林 第三版』等の国語辞典による。〕か。次いで賢息(=貞時)御簾中御簾中とは貴人の正妻を指して言った敬称として使われることが多いが、元々の語源としては常にの内側にいる貴人を指す(『デジタル大辞泉』等の国語辞典による)ため、この場合は将軍・惟康親王が簾の内側におでましになったと考えられる。〕に参らる。」という表現から当時の将軍惟康親王が立ち会ったことが窺えるため、これまでの得宗家当主〔北条泰時経時時頼時宗の元服の様子は『吾妻鏡』で確認することができる(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.164))。〕と同様に将軍(惟康親王)を烏帽子親として元服したものとみられている〔〔。
元服に際しては烏帽子親の偏諱実名の1字)を受けることが多いが、「貞時」の名乗りを見て分かる通り、将軍の偏諱(惟康親王の「惟」または「康」の1字)は受けなかったようである。同時代(の上の立場)の者で「貞」の字を用いる人物はおらず、研究では祖先とされるに肖ったものとする見解が示されている。元々は細川重男がこの説(加えて貞時の息子・高時の「高」が高望王に由来するとする説)を唱えたものの根拠なしとして論文等では示してはいなかったが、角田朋彦が根拠付きでこれを支持している。これは、細川が著書で、父の時宗の代に、得宗家による政治支配体制を確立させるにあたりその正統性を主張するために、祖にあたる北条義時武内宿禰になぞらえる伝説が生まれて流布していたこと〔細川重男本郷和人 「北条得宗家成立試論」(所収:『東京大学史料編纂所研究紀要』11号、2001年)、細川重男 「得宗専制政治の論理」(『年報三田中世史研究』9号、2002年)。〕や、時宗とは不可分の関係にあった平頼綱(貞時の乳母の夫にあたる)が自らの家格を向上させるため、次男・助宗(資宗とも書く)の名字(名前の1字)を平資盛に求めた可能性があること〔細川重男 「飯沼大夫判官と両統迭立」(『白山史学』38号、2002年)。〕を述べており、こうした考え方が可能ならば、同様に時宗が自分の嫡男の名字を平貞盛に求めたと考えることができるのではないかという理由によるものである。加えて角田は、貞時の代には将軍→御家人という偏諱の授与の図式は存在せず〔角田氏の論文が出された後に、赤橋流北条氏北条久時久明親王北条守時守邦親王の偏諱を賜っていることが指摘されている(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」脚注(27)(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、p.182))が、これは赤橋家が将軍を烏帽子親とする家系であったためであり、例外とみなす。〕、得宗家当主である貞時の「貞」の字が他の御家人に与えられる図式がこの時代に成立していたことが御家人の名前から窺え〔紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年)にはその事例が幾つか紹介されている。後述の偏諱を受けた人物の節も参照のこと。〕、これは得宗権力が確立していたことの徴証の一つとして読み取れるとする見解を示している〔以上の記述は、角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年、p.20-21)による。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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