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勧修寺経顕 : ミニ英和和英辞書
勧修寺経顕[かしゅうじ つねあき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かん]
 【名詞】 1. recommend 2. advise 3. encourage 4. offer (wine)
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [けい, たていと]
 (n) (weaving) warp

勧修寺経顕 : ウィキペディア日本語版
勧修寺経顕[かしゅうじ つねあき]

勧修寺 経顕(かしゅうじ つねあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿
藤原北家高藤流甘露寺支流の名家勧修寺家の初代当主。
== 生涯 ==
元徳元年(1329年)に蔵人頭に任じられ、翌元徳2年(1330年)には参議に任じられた。暦応3年/興国元年(1340年)に権大納言となり、2年後の康永元年/興国3年(1342年)に権大納言を辞しているが、「光厳院の寵臣」(『椿葉記』)と称されていたように光厳上皇の元で院伝奏・評定衆・武家執奏を長く務め、また妻が上皇の皇子乳母になるなど相応の地位が確保された。
正平一統の際に宮中の混乱を鎮め、失意の二条良基を叱咤して、妻の乳母子である後光厳天皇の擁立を画策した。応安3年/建徳元年(1370年)には内大臣従一位に任じられているが非難も多く〔名家級出身の経顕の内大臣任命に対して名門公家の反感が強かった。後醍醐天皇建武の新政を「先例にならない」と痛烈に批判したことで知られる三条公忠は、後光厳天皇の乳父である経顕が家格を超えて内大臣になったのは、建武の新政で後醍醐天皇の乳父吉田定房(経顕と同じ勧修寺流出身)が内大臣になったことが先例とされたと憤慨している(『後愚昧記』応安3年3月16日条)。(参照:加地宏江『中世歴史叙述の展開 -『職原鈔』と後期軍記-』(吉川弘文館1999年) ISBN 978-4-642-02779-3)〕、翌年には辞職している。光厳・後光厳両天皇の信任が厚く、北朝方の重鎮として活躍した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「勧修寺経顕」の詳細全文を読む




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