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光線画 : ミニ英和和英辞書
光線画[こうせんが]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひかり]
 【名詞】 1. light 
光線 : [こうせん]
 【名詞】 1. beam 2. light ray 
線画 : [せんが]
 (n) line drawing
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 

光線画 : ウィキペディア日本語版
光線画[こうせんが]

光線画(こうせんが)とは、浮世絵の一種。明治時代初期に小林清親によって始められた、新しい様式の名所絵風景画。同時期の他の浮世絵師たちが、明治期特有の毒々しい色彩を使用していたのと対照的に、清親らは文明開化の波に晒された江戸から東京に移りゆく都市景観を、光と影を効果的に用いて新しさと郷愁とが同居した独自の画風で描き人気を博した。
== 来歴 ==
明治9年(1876年)8月31日付で、清親が版元大黒屋松木平吉から「光線画」と名付けた「東京新大橋雨中図」(浮世絵 太田記念美術館所蔵)など5点を出版したのが最初である。この5点が好評で驚くほど売れたため、以後次々と出版された。明治12年(1879年)からは、版元が福田熊次郎に移り、彫り、摺り共に充実した作品が次々と出ている。出版までの事情は明確ではないが、清親の5女・哥津は「人形町の具足屋(福田熊次郎)や両国の大平(松木平吉)等といふ人が、父のかいたスケッチ帳を見て、一ふんぱつしの気で、横画の木版にして見たら、又変わってゐてよいかもしれぬといふような事から、実行された」と述懐している。光線画の名前は松木が考案した。当時市中にガス灯が灯りはじめ、人々が光は線条をなすのに気づいたため「光線」という言葉が流行したと言われる。清親が手がけた光線画は、5年間で松木から17点、福田から76点の総数93点にのぼる。これらは、清親没後の回顧展などで「東京名所絵」の名で一連の作品として括られ、現在でもそのように扱われる。
しかし、明治14年(1881年)夏、清親は光線画の制作を中止し、以後風景画を描くことはあっても、光線画風には描かなかった。その理由は、清親自身の言葉や、清親の娘哥津の回想でも語られていない。同年1月と2月の大火事で、先妻との関係が破綻したためとも、版元である松木の経営悪化によるとも見られ、事実清親作品の松木からの出版は大幅に減少する〔能勢亜希子 「小林清親《武蔵百景之内 深かわ木場》《同 水道橋茶の水》《同 目くろいゑんひう蔵》」『府中市美術館 研究紀要』第七号、2003年4月30日、p.20。〕。また、画家が愛した江戸の風景が無くなったためとも、明治十四年の政変で反政府派に転向した清親にとって、明治政府による社会変革を肯定的に見る視覚を誘う光線画は耐え難い作品になったとも、弟子の井上安治の風景画における才能を認めたため、道を譲ったともいわれる。その後も光線画は根強い人気があり、安治が引き続き「東京名所絵」のシリーズを描き出版している。清親や安治以外で光線画を描いた絵師として、五姓田芳柳の弟子といわれ、明治13,14年に清親の影響を受けた作品を十数点発表した小倉柳村や、明治18年に「京阪名所図絵」とい揃物20図を出版した京都の絵師野村芳国が挙げられる。
その後、錦絵の衰退に伴い光線画も描かれなくなるが、明治末になると清親の「東京名所絵」を再評価する動きが起こる。木下杢太郎は清親を訊ね、作品のことを聞き、大正2年(1913年)雑誌「美術」に「清親 東京名所絵」を発表する。同年永井荷風も『日和下駄』において、古き良き江戸時代の風景を伝えるとして清親の「東京名所絵」を高く評価した。こうした動きは、川瀬巴水吉田博らに引き継がれる事になる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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