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傅カ : ミニ英和和英辞書
傅カ[ふ か]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふ]
 【名詞】 1. instructor 2. tutor (to a prince)

傅カ : ウィキペディア日本語版
傅カ[ふ か]

傅 嘏(ふ か、209年 - 255年)は、中国三国時代の政治家。蘭石涼州北地郡泥陽県の人。に仕えた。祖父は傅睿(後漢代郡太守)。父は傅充(魏の黄門侍郎)。伯父は傅巽(魏の侍中尚書)。子は傅祗。孫は傅宣・傅暢。『三国志』魏志に伝がある。
20歳頃から名が知られるようになり、陳羣に採り立てられその属官となった。当時、劉劭達の間で官吏選抜制度の議論が活発であったが、傅嘏もまた自分の意見を述べた。また、何晏・鄧颺・夏侯玄といった人物が一世を風靡していたが、傅嘏は彼らの人物を嫌って親しくしようとはせず、荀粲のような正直な人物と付き合った。同じ州の出身である李豊とは、名声を等しくしていたが不仲であり、李豊が高官に昇ってもいずれ破滅するだろうと予想していた。
正始年間に尚書郎に任命され、黄門侍郎にもなった。当時政治の実権を握っていた曹爽は、何晏を吏部尚書とし人事を任せていた。傅嘏は曹爽の弟曹羲に何晏を重用しないよう勧めたが、これが何晏の耳に入ったため、後に些細なことを理由に免職とされた。後に滎陽県令に任命されたが、出仕しなかった。後に司馬懿の招聘を受けて従事中郎将となり、曹爽一派が失脚すると河南尹に任命されて、尚書に昇進した。河南尹の政治は、前任者の李勝の統治が放漫であったため乱れていたが、傅嘏は先任者である司馬芝や劉静らの政治手法から学び、統治を引き締めた。しかし、その功績が表に出ないように努めたため、人々に評されることはあまりなかったという。
前線の将軍達の間で征伐の機運が持ち上がると、傅嘏は意見を求められたが、呉征伐に消極的な意見を述べた。果たして、胡遵諸葛誕が東興で呉の諸葛恪に敗れ、遠征は失敗に終わった(東関の役)。この勝利に奢り、今度は諸葛恪が北伐の軍を起こし、青州徐州に攻め寄せる気配を見せたとき、傅嘏はその動きは陽動であり、結局、諸葛恪が合肥に攻め寄せるであろうと予想し、的中させている。
嘉平年間に関内侯の爵位を得た。曹髦(高貴郷公)が即位すると、武郷亭侯に爵位を進めた。255年、毌丘倹文欽揚州で反乱を起こしたときは、司馬師が自ら討伐に出向くことを王粛と共に主張した。傅嘏は尚書僕射として司馬師の遠征に同行、反乱の鎮圧には傅嘏の策謀によるところが大きかった(毌丘倹・文欽の乱)。司馬師が死去すると、曹髦が傅嘏のみに軍を率いさせ司馬昭の権力を削ごうとしたが、傅嘏は直ちに司馬昭を伴い洛陽に帰還した。陽郷侯に封じられ、600戸の加増を受け、1200戸を領した。その年の内に46歳で亡くなった。太常を追贈され、元侯と諡された。子が爵位を継いだ。
鍾会と親しく付き合ったが、鍾会の野心の高さを見抜き、行く末を心配していたという。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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