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諸葛恪 : ミニ英和和英辞書
諸葛恪[しょかつ かく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しょ]
  1. (pref) various 2. many 3. several 
: [くず]
 【名詞】 1. (Japanese) arrowroot 

諸葛恪 : ウィキペディア日本語版
諸葛恪[しょかつ かく]

諸葛 恪(しょかつ かく)は中国三国時代の政治家。に仕えた。元遜諸葛瑾の長男で、(蜀漢)の丞相諸葛亮の甥にあたる。弟に諸葛喬諸葛融。子は諸葛綽諸葛竦諸葛建
==概略==

===孫権時代===
若い頃から機知と才気に長けていた。一方で性格は父・諸葛瑾や叔父の諸葛亮とは正反対と言っても良く、思慮深いとは言えず、いい加減で、野心家であり、弁論でも他人をやりこめるのが得意であり、才能をひけらかすのが好きだった。
逸話として、宴の最中に引き出された驢馬の額に、孫権が戯れて「諸葛子瑜」と書いたことがあった(子瑜は諸葛瑾の字、諸葛瑾は面長であったとされる)。一座の者は大笑いしたが、父を馬鹿にされて面白くない幼少の諸葛恪は、その下に「之驢」と2文字を書き加え、「諸葛瑾の驢馬」という意味にした。孫権はじめ一座の者は諸葛恪の機転の良さに舌を巻き、その驢馬は諸葛瑾に与えられた。また、孫権に「お前の父と叔父と、どちらが偉いか?」(現代に至るもそうだが、当時も諸葛亮のほうが評価が高かった)と問われた際に、「父です。仕えるべき主君を存じております故」と即座に返答し、孫権を感心させている。他にも正史には彼の幼少時代の才気煥発さを示すエピソードが多く載せられている。
一方で負けず嫌いを示す逸話もある。皇太子孫登に「馬の糞でも食っていろ」とからかわれた際に、諸葛恪は「ならば太子様は鶏卵をお召し上がり下さい」と言い返した。脇で聞いていた孫権が意味がわからず問いただすと「鶏卵も糞と同じ所から出ます」と返答したという。婉曲な表現であっても、皇太子相手でも言い返さずには済まなかったのである。
その才能に見合わぬ性格の問題から、諸葛瑾は常に「息子は頭が良過ぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、潰すのもまたこの子だろう」と嘆いていた。諸葛亮も陸遜に宛てた書状の中でわざわざ「恪は大雑把でいい加減なので兵糧管理などは向かない」と判じて注意し、更に陸遜も彼をつかまえて「その人を人と思わない性格をどうにかしなさい」と窘めている。
また諸葛恪は張休顧譚陳表とともに皇太子の孫登の側近となり、諸葛恪ら四人は孫登の四友と呼ばれた。
諸葛恪は「丹陽は山が険しく、住民の多くは勇敢なのですが、丹陽郡の奥地には不服住民(山越)が多いです。自分が丹陽郡に赴けば、3年で武装兵4万人を手に入れられます」と上申した。
234年、諸葛恪は撫越将軍・丹陽太守に任じられ、陳表・顧承らとともに山越の討伐を命じられる。諸葛恪は策略を使って、あまり戦うことなく、3年で山越を帰順させ、4万人以上の山越兵を手に入れる事に成功した〔諸葛恪とともに山越を討伐した顧承は諸葛恪とは別に8000人の山越兵を徴兵し、陳表は1万人以上の山越兵を徴兵した。〕。その功績をたたえられ、威北将軍に任ぜられ、都郷侯に封ぜられた。その後もとの戦いで功績を挙げ、246年大将軍に任ぜられた。
皇太子の孫登が死去すると、孫和が皇太子となった。しかし、孫和と孫覇との間で継承争いが起き、家臣団が真っ二つになって争いあう事態となった。諸葛恪は孫和を支持したが、諸葛恪の長男の諸葛綽は孫覇を支持したようである。結局、孫和は太子を廃されたうえに幽閉され、孫覇は処刑され、孫亮が皇太子となった(二宮事件)。孫権はこの事について諸葛恪に諸葛綽の再教育を命じた。諸葛恪は諸葛綽を毒殺した。
245年,陸遜は諸葛恪に謂うには 「私の前に在る者には、私は必ず同じく昇るよう奉じ、私の下に在る者には、これを扶持している。今、観たところ君の気は上を凌ぎ、意は下を蔑ろにしている。安徳の基とはならない」。諸葛恪は陸遜が行節面によって己れを嫌っている事を知っており、ゆえにその道理を広げて陸遜の主旨に賛同したのである。たまたま陸遜が卒して諸葛恪は大将軍に遷り、節を仮されて武昌に駐屯し、陸遜に代って荊州の事を典領した。
251年12月、皇太子の孫亮がまだ幼かったので、孫権は寝疾(病臥)すると、付託の事を討議させた。時に朝臣の咸なが皆な諸葛恪に意を注いでおり、孫峻が上表して諸葛恪の器は輔政を任せ、大事を付託すべきものだと。孫権は諸葛恪が自らの働きの為に専断するのを嫌っていたが、孫峻は当今の朝臣では皆な及ぶ者が莫いとして固く自説を保ち、かくして諸葛恪を徴した。後に諸葛恪らを臥内で引見し、牀下に詔を受けさせた、諸葛恪は太子太傅に任ぜられた。
252年、孫権が危篤になると、孫弘孫峻滕胤呂拠と共に後事を託された。次の日、孫権は逝去し、孫亮が皇帝となった。孫弘は諸葛恪と仲が悪かったことから、孫権の死を隠して諸葛恪を排除しようとしたが、逆に露見し誅殺されてしまう。これにより、その後の呉の実権は諸葛恪が握ることになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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