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何應欽 : ミニ英和和英辞書
何應欽[なん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なん]
  1. (int,n) what 

何應欽 ( リダイレクト:何応欽 ) : ウィキペディア日本語版
何応欽[か おうきん]

何 応欽(か おうきん、1890年4月2日 - 1987年10月21日)は中華民国軍人敬之貴州省興義府興義県出身。祖籍は江西省撫州府臨川県
東京振武学校第11期、日本陸軍士官学校28期卒業。黔軍(貴州陸軍)出身で、後に孫文(孫中山)配下となり、国民革命軍創設に貢献した。孫死後はかねてから親しかった蒋介石を支え、その片腕と評されるまでになった。軍政部長を長期にわたり務め、日中戦争末期に連合国中国戦区陸軍総司令に就任、日本の降伏受諾任務にも携わる。しかし戦後は蒋との関係が悪化して一時冷遇され、国共内戦後半に復権して国防部長行政院長も務めたが中国人民解放軍に敗北した。
勲一等旭日大綬章バス勲章ナイト・コマンダー(KCB)受賞。
== 経歴 ==

=== 日本留学と黔軍での台頭・失脚 ===
何其敏の子。7歳にて私塾に学ぶ。1906年光緒32年)、貴州陸軍小学堂に入学し、1909年宣統元年)、武昌陸軍第三中学に進学した。同年冬、谷正倫らと共に日本に留学し、東京振武学校第11期で学習した。このときに蒋介石とも知り合い、また中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)秋に辛亥革命が勃発すると、何応欽は帰国して上海に赴き、滬軍都督陳其美の下で革命派として活動した〔李(1996)、206頁。〕。
1913年民国2年)の第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、何応欽は日本に逃れ軍事の学習を再開する。1914年12月に陸軍士官学校に中国学生隊第11期として入校。同期に朱紹良賀耀組らがいた。1916年5月、陸士(第28期に相当)を卒業〔参考文献『日本陸海軍総合事典』第2版、682-683頁。〕して帰国し、黔軍(貴州陸軍)第1師歩兵第4団団長に任命される。また、「新派」〔孫文(孫中山)を支持する貴州省内の一派閥。黔軍内の若手軍人(新軍軍人)たちを主力とした。これに対抗したのが、北京政府を支持した旧軍・政治家の「旧派」で、貴州督軍の劉顕世(王文華のおじ)を指導者としていた。〕の指導者王文華の妹・王文湘と結婚し、何自身も新派の幹部と目されるようになる。以後、貴州講武学校校長、少年貴州会主任、黔軍第5混成旅旅長、貴陽警備司令などを歴任した〔。
1920年(民国9年)11月10日、何応欽は王文華配下の同僚・谷正倫と共に王の指示で旧派粛清の兵変を敢行し、貴州督軍劉顕世を下野に追い込んだ(民九事変)。ところが翌1921年(民国10年)3月、王が北京政府を支持する配下・袁祖銘の刺客に上海で暗殺されてしまう。このため、王の委任により黔軍総司令代理を務めていた盧燾が正式に総司令となったものの、外省人だった盧は指導力を発揮できず、何と谷の間で主導権争いが展開された〔。
当初は省会たる貴陽の警察権を握る何応欽が優勢だったが、谷正倫は省外で孫文(孫中山)のために軍功をあげるなどして次第に軍事力を拡大、1922年(民国11年)1月には孫から中央直轄黔軍総司令に任命される。これにより形勢は逆転し、さらに谷は何の配下を買収して兵変を起こさせ、ついに何は貴州から駆逐されてしまった。まもなく何は雲南に赴き、孫を支持する滇軍総司令顧品珍から雲南陸軍講武学校校長に起用される。ところが何に怨みを抱く旧派の刺客に銃撃されて瀕死の重傷を負い、上海で療養することになった。〔結果的に何は、この事件のおかげで顧品珍が唐継尭に殲滅される戦争には巻き込まれずに済んだ〕〔李(1996)、206-207頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 He Yingqin 」があります。




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