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伏見康治 : ミニ英和和英辞書
伏見康治[ふしみ こうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふく]
  1. (n,vs) stoop 2. bend down 3. crouch 4. lie down 5. prostrate oneself 6. fall prostrate 7. hide 8. yield to 9. submit to

伏見康治 : ウィキペディア日本語版
伏見康治[ふしみ こうじ]
伏見 康治(ふしみ こうじ、1909年6月29日 -2008年5月8日 )は日本理論物理学者理学博士公明党参議院議員(1期)。正四位勲二等(没時)。
本来の仕事である物理学、特に統計力学の分野で大きな研究業績をあげた他、戦後日本の科学研究体制の確立と発展にも力をつくし、原子力平和利用研究を推進、さらには科学者の社会的責任のアピールと行動、一般向け書籍による物理の面白さの啓発・普及、そして対称性の美の追究など、多方面に大きな足跡を残した。
== 経歴・事績 ==
伏見は1909年に愛知県名古屋市で生まれ、東京で育ち、東京高等学校を経て東京帝国大学理学部物理学科に進んだ。 そして1933年に大学を卒業するとすぐに同大学理学部物理学教室で寺澤寛一教授の助手となり、翌1934年に新設の大阪帝国大学理学部物理教室に移った。大阪では友近晋教授のもとに助手としてつく予定であったが、友近教授がイギリスに留学したため、菊池正士教授に誘われて原子核実験に携わった。そして同教室で助教授を経て1940年に教授に昇進し、また量子統計力学の密度行列に関する論文(1940年)により理学博士の学位を取得した。 1942年に河出書房から出版した「確率論及統計論」〔http://ebsa.ism.ac.jp/ebooks/ebook/204 EBSA:統計科学のための電子図書システム 〕は科学研究のための確率・統計論の名著として評価が高い。
この時期、伏見は一般への物理の面白さ普及にも力をそそいだ。 まず1942年に原子核物理学の一般向け啓蒙書「驢馬電子」を書いて出版した。 そして翌1943年にはジョージ・ガモフの名著「不思議の国のトムキンス」を訳出、日本に紹介して若者を誘い、多くの物理学者を生み出すのに力があった。啓蒙活動は戦後も続け、雑誌「自然」に原子核物理学に関する読み物を連載した。
戦後になって伏見は日本においても独自に原子力の研究を行うことの重要性を認識し、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を起草して茅誠司とともに提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。 そして大阪府泉南郡熊取町京都大学原子炉実験所創設にあたっては「核」に対するアレルギーから建設に反対する地元住民を説得して実験所実現に寄与した。また門下で多数の傑出した原子力研究者を育てて送り出し、日本の原子力発展に貢献した。
さらに1950年代半ばになって核融合研究の重要性が認識されるや、湯川秀樹嵯峨根遼吉らとともに研究体制の議論を進めた。そしてAB論争の後、1961年に名古屋大学にプラズマ研究所が設立されるや自身が大阪大学から名古屋大学に移って同研究所の初代所長に就任し、研究所の整備に努め研究推進を図るとともに、客員研究部門の創始など「全国大学共同利用研究所」運営の理想を追求した。
1973年に名古屋大学を定年退官したあとは、日本学術会議を活躍の場として研究環境の整備に力をいたした。特に1977年から1982年にかけて同会議会長に就任し、国内の研究推進と並行して、科学者の国際交流に尽力した。そして1983年、第13回参議院議員通常選挙比例代表区に公明党・国民会議から名簿順位第1位で立候補し当選。1989年まで1期務めた。
また東西冷戦の時代から日ソの学術交流に尽力し、1991年のソビエト連邦崩壊によって同国の科学者が窮乏の淵に陥った時には各方面に呼びかけてその救援活動を行った。
その他の社会的貢献としては、世界平和アピール七人委員会に1982年から参加して数々のアピールに加わった。ところが伏見は1983年に参議院議員に当選し、国会議員との併任は望ましくないとの理由で同年に七人委員会委員を一旦辞任したが、1989年の参議院議員任期満了に伴う退任で1995年にまた参加して没年まで活動を続けた。
伏見は対称の美について深い関心をもち、1960年代には「紋様の科学」と題して対称性図形の話を「数学セミナー」に連載した。また早くからマウリッツ・エッシャーの版画を愛し、折に触れて語っていた。そして1979年には安野光雅、中村義作との鼎談が記録されて「美の幾何学」(中公新書)が出版された。また夫人満枝と共同で折り紙の幾何学も研究し「数学セミナー」に寄稿した(単行本「折り紙の幾何学」として出版)。「折り紙の幾何学」の冒頭では、1次元の繰り返し紋様が円筒によって生成されることは古代より知られているが、2次元の広がりをもつ繰り返し文様は準〔「準」は原文ママ。正多面体類を指す表現の訳には現状少々の混乱があるが(参考: http://www.zome.jp/column/clm7/clm7.html )ここでの「準正4面体」とは、それを構成する3角形が全て合同であれば、正3角形でなくてもよい、という緩和した正4面体を指している。〕正4面体によって生成できる(少し試すとわかるが直方体では駄目である)ことを見つけ、そこから正多面体の折り紙に興味を持ったと説き起こされている。折り紙に関しては、幾何の教材にこれほど良いものはないだろうと言ったところ、息子に今では学校でろくに初等幾何を教えたりしていないのだと言われて衝撃を受け、編集長(矢野健太郎)は何をしているのだ、といった話や、化学者槌田龍太郎の息子が出てくるほのぼのとした話などもある。
妻は、伏見満枝、物理学者伏見譲と情報サービス産業で活躍している伏見諭は息子。伏見康子は娘〔「折り紙の幾何学」(日本評論社)1979〕。富山小太郎は義弟〔朝永振一郎「富山さんの思い出」『科学』第42巻第12号〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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