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二井原実 : ミニ英和和英辞書
二井原実[にいはら みのる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [に]
  1. (num) two 
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [み, じつ]
 【名詞】 1. fruit 2. nut 3. seed 4. content 5. good result 

二井原実 : ウィキペディア日本語版
二井原実[にいはら みのる]

二井原 実(にいはら みのる、1960年3月12日 - )は、日本歌手ヘヴィメタルバンドLOUDNESS、及びX.Y.Z.→Aボーカリスト大阪府大阪市住吉区出身。
ニックネームは、ニィちゃん、ニィやん、みの吉、(主に海外の関係者やファンから)ミック、ミッキー、等。
== 経歴 ==
1960年3月12日、大阪府大阪市住吉区南住吉生まれ。家族構成は、父、母、姉、弟(CHRIST、gerden of soulのドラマー二井原教仁(にいはらのりよし))。幼少時に小児ぜんそくを患っており(現在は完治)そのこともあってか、性格は内向的でおとなしく、いつも母親の後を付いて回るような気弱な子どもであった〔ラウドネス関連書籍「100%LOUDNESS」(1984年 シンコー・ミュージックYOUNG GUITAR1984年2月号臨時増刊)より〕。小学校に上がった頃に始めた剣道の成果も相俟って、持病が回復傾向に向かうや徐々に明るく陽気な一面を発揮し始める。
中学校に入学すると、家族やクラスメイトの影響からスリーピー・ジョン・エスティスステファン・グロスマンといったリズム・アンド・ブルースビートルズに興味を持つ。そんな折り、友人から「バンドやろうや。おまえ(二井原)はポール・マッカートニーな(ベース担当の意)」と半ば強引にバンドに誘われる。祖母に頼み込んでベース・ギターを買ってもらったことで弾みがつき、その後の音楽人生の起点となった。
1975年上宮高校に入学。軽音楽クラブに入り、そこで知り合った同級生の石原愼一郎らと共にハードロックバンド、「EARTHSHAKER(アースシェイカー)」を結成。当初はベーシストとして参加したが、結成時のボーカルが1年ほどで脱退してしまった為、それ以降ボーカルも兼任することになる。しばらくはボーカリストとしてよりもベーシストとしてのプレイに重点を置いて活動していたが、周りの反応から少しづつ自分の歌声の特異性(ナチュラルキーの高さやボーカルレンジの広さ、等)に気付き始める。ヤマハ楽器主催のアマチュアバンドコンテスト「バンド合戦」に出場した際、審査委員であったソー・バット・レビューの石田長生に、「珍しい声」「おもろい声」と褒められた〔二井原実BLOG R&R GYPSY 2008年3月26日配信「アマチュアバンドコンテスト」 より〕ことで、次第に本格的なボーカリストを目指すようになる。また、同コンテストに優勝したことによってアースシェイカー知名度を上げ、当時関西で人気絶頂であったアマチュアバンド「山水館」や「シェラザード」(共に「NOVELA(ノヴェラ)」の前身)などのイベント前座に起用されるようになる。しかし、バンドの勢いとは逆行するように、大学進学を境にして、二井原自身の趣向はハードロックよりもリズム・アンド・ブルースやソウル・ミュージックの方へと原点回帰していき、大学2年時の1979年には「ハードロックはもうやらない」とアースシェイカーから脱退。並行して在籍していた京都R&Bバンド「Soul-Doo-Out」の活動に精力を傾注することで、ハードロック・ボーカリストからソウル・シンガーへとシフトチェンジしていった(この時期にムード歌謡グループニック・ニューサ」のヒット曲「サチコ」のレコーディングにコーラスとして参加している)。なお、「ハードロックはやらない」発言の裏には、プロ志向が強かった石原に対して、当時はまだ自身の力量に自信をもてずにいた二井原が、プロを目指すことに二の足を踏んでいた〔二井原実BLOG R&R GYPSY 2008年3月31日配信 「卒業」 より〕胸中があったものの旨く伝わらなかったため、意図のすれ違いが生じたまま二人はしばらくの間絶縁状態となる〔二井原実BLOG R&R GYPSY 2008年5月22日配信「別れ」 より〕。
佛教大学軽音楽部では同級生の藤村幸宏らとファンクバンド「青春会」を結成し、「ITACHI(「TOPS」の前身)」等と共に京都では有名なファンクソウルバンドとして活動していた。1980年(大学3年時)の秋、自身のソロアルバム制作のため「世界に通用するような強力なボーカルをさがして」いたレイジーギタリスト高崎晃が、アースシェイカー時代の二井原の歌声を聴いて興味を持ち、オーディションへの参加依頼を打診する〔二井原実BLOG R&R GYPSY 2008年5月29日配信「宇宙船地球号」 より〕
(ちなみにこの時、高崎にアースシェイカーのライブテープを送り熱心に二井原を推薦していたのが、後にベーシストとしてラウドネスで盟友となる山下昌良であった〔二井原実BLOG R&R GYPSY 2008年3月31日配信 「卒業」 より〕 )。オーディションに合格、翌年1981年3月、高崎とドラマーの樋口宗孝の薦めにより、大学を一時休学(のちに除籍)して上京(二井原曰く「移動手段は格安の深夜の高速バスで、所持金は5000円札1枚のみ」だったという〔二井原実BLOG R&R GYPSY 2008年6月11日配信「旅立ちそして東京」 より〕)。しかし、高崎と樋口はまだレイジーとしての活動があり、差し当たって高崎のソロ・プロジェクトをバンド形態にするということだけは決まったものの、それ以外は所属するマネージメント・オフィスレコード会社はおろかバンド名すら決まっておらず、二井原が加入した直後の数ヶ月間は完全に宙ぶらりんな状態であった。また、上京後の数ヶ月は樋口のマンションに居候させてもらい、共同生活をしていた。
1981年5月末をもってレイジーが解散、一段落したのを機に8月には三重県鈴鹿市のチェスナットスタジオに於いてデビューアルバムのレコーディングを開始、バンド名が「LOUDNESS(ラウドネス)」に決定したのもこの頃である〔二井原実BLOG R&R GYPSY 2008年6月16日配信「LOUDNESS誕生!」 より〕。
同年11月25日、コロムビア・レコードよりデビューを果たす(ラウドネス関連についてはLOUDNESSの項目参照)。
1988年12月、ラウドネスを脱退。当初「目指す音楽の方向性の違いから自発的に脱退」と各メディアで報じられ、ファンのみならず関係者にも大きな衝撃を与えたが、後年になって「実際には自主的な脱退などではなく、一方的な解雇であった」事が二井原自身の口から語られている〔キャプテン和田の劇的メタル 2007年2月22日ONAIR分 より〕。
1989年早々に「当面はソロのシンガーとして活動する」ことを宣言。6月にはファーストアルバム「ONE」をリリースし、中間英明宮脇知史、藤村幸宏らを従えてツアーを開始。
1990年、藤村幸宏(G)、永井敏己B)、菅沼孝三Dr)と言ったテクニカル・プレイヤーらと共に「DED CHAPLIN(デッド・チャップリン)」を結成(デッド・チャップリン関連についてはデッド・チャップリンの項目参照)。
1994年、石原愼一郎(G)、寺沢功一(B)、樋口宗孝(Dr)と共に「SLY(スライ)」を結成(SLY関連についてはSLYの項目参照)。
1999年、SLYの活動が休止したのを機に、当時傾倒していたヒーリングミュージックへの移行を考えていたが、この相談を受けたファンキー末吉が猛反発。末吉から「誰もおまえのそんな(ヒーリングミュージックを歌う)姿なんて望んでない」「ロックの世界に引き戻す」と強く説得され〔キャプテン和田の劇的メタル 2007年3月1日ONAIR分 より〕、ファンキー末吉(Dr)、橘高文彦(G)、和佐田達彦(B)と共に「X.Y.Z.→A(エックス・ワイ・ズィー・トゥ・エー)、結成当初のバンド名は「X.Y.Z.」」を結成する(X.Y.Z.→A関連についてはX.Y.Z.→Aの項目参照)。
2000年、ラウドネスがオリジナルメンバーでの活動を行うことになり、それに伴い復帰。
2006年、17年振りのソロアルバム『Ashes to Glory』をリリース。全盲でありながらもテクニカルギタリストとして知名度を上げている田川ヒロアキがプロデュース兼ギタリストとして参加。
2007年12月、18年ぶりとなるソロライヴ『Rock'n Roll GYPSY TOUR 07』東名阪ツアーを決行。サポートメンバーは、「夜叉」の福島克彦(G)、田川ヒロアキ(G,Key)、田中丸善威(B)、加藤剛志(Dr)。
2008年、同年5月9日 - 10日に行われた、ソロライヴ時の音源を収録した2枚組みCD『MINORU NIIHARA LIVE!"R&R GYPSY SHOW"@KAGURAZAKA DIMENSION』をリリース。同時期に、SHOW-YA寺田恵子、アースシェイカーで二井原の後任ボーカリストの西田昌史と「西寺実」を結成した。
2011年、二井原とブラスロックバンド「BLUFF」のリーダーで音楽プロデューサーの松木隆裕が中心となって、米国のファンクバンド「Tower Of Power」の楽曲を中心に、James BrownOtis Redding等、ソウルミュージックのカバーライブを行った際の音源を東日本大震災チャリティーとしてリリース。メンバーには元スペクトラムカシオペアのメンバーの他、トップスタジオミュージシャンが多数参加し、その後も「SOUL CRAZY NIGHT」名義で定期的にライブを行っている。
2014年11月、イヤーモニターの世界最大手「WESTONE」社の公認アーティスト〔WESTONE社公式サイト 「WESTONE ARTIST」 より〕として、日本人で初めて選出される〔YAHOO!JAPANニュース 2014年11月25日配信「二井原実、Westone公認アーティストに」 より〕〔"ROCK ME BABY!!!"BLOG 2014年11月26日配信「IEMの老舗"WESTONE"の公認アーティストになったがな。」 より〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「二井原実」の詳細全文を読む




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