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中里介山 : ミニ英和和英辞書
中里介山[なかざと かいざん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [り]
 【名詞】 1. ri (old measure) 2. 2. 44 miles 
: [かい]
  1. (n,vs) shell 2. shellfish 3. being in between 4. mediation 5. concerning oneself with
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

中里介山 : ウィキペディア日本語版
中里介山[なかざと かいざん]

中里 介山(なかざと かいざん、男性、1885年明治18年)4月4日 - 1944年昭和19年)4月28日)は、日本小説家。本名は、中里 弥之助
甥に、ロシア・ソビエト文学者の中里迪弥(なかざとみちや)。
== 略歴 ==
神奈川県西多摩郡羽村(現在の東京都羽村市)に精米業者の次男として生まれる。玉川上水の取水堰にほど近い多摩川畔の水車小屋で生まれたと伝えられる。生家は自由民権運動で三多摩壮士と呼ばれた人びとの根拠地で、民権運動の気風が色濃く残る土地であった。
長兄は早世しており、少年時代に農家であったが、父の代で離農したため土地を失い、不遇の時代を過ごした。1898年(明治31年)西多摩尋常高等小学校を卒業後に上京し、日本橋浪花電話交換局での電話交換手や母校の代用教員の職に就き、一家を支えた。この時期に松村介石に傾倒し、号の「介山」も松村にあやかるものだという。
平家物語』などの日本古典に親しむ一方で、ユゴーらの外国小説も好んだという。また、キリスト教社会主義に接近し、幸徳秋水堺利彦内村鑑三山口孤剣らの社会主義者と親交を結び、「平民新聞」へ寄稿する。
一方、週刊『平民新聞』の懸賞小説に応募して佳作入選となった「何の罪」が同紙に掲載され、以降、詩や小説を同紙に発表する。週刊『平民新聞』の後継紙である『直言』では編集同人となった。また、山口孤剣や白柳秀湖らと火鞭会を結成する。このころからトルストイの影響を受け、また内村鑑三柏木教会へも通い始める。
田川大吉郎の推挙で1906年(明治39年)に『都新聞』に入社、次々と小説を発表し、1909年(明治42年)には都新聞にはじめての連載小説「氷の花」を発表。後に社会主義からは離別しているが、幸徳らが処刑された「大逆事件幸徳事件)」は、介山の交友関係者のなかからも多数の逮捕者・刑死者を出し、介山の精神にも深い影を落とした。「大逆事件」の影響は、『都新聞』の連載小説「高野の義人」と「島原城」にみられ、さらに長編『大菩薩峠』に及んでいると指摘されている。
1913年大正2年)9月12日に「都新聞」で小説『大菩薩峠』の執筆を開始、1921年(大正10年)10月まで連載する。『都新聞』での連載以後は書き下ろしとして1918年(大正7年)に自費出版、1921年(大正10年)に木村毅から春秋社社主神田豊穂を紹介され同社から出版〔このため、『大菩薩峠』には多くの異版が存在する。〕、菊池寛国柱会田中智學の推薦で有名になる。
『大菩薩峠』の連載を終えた後は私塾や図書館経営、出版業などをするものの。1927年(昭和2年)11月1日に東京日日新聞社と春秋社ので共催、『大菩薩峠』続編掲載披露宴が東京會舘で開れた〔参加者は、武者小路実篤、堺利彦、田中智学ら。〕。これ以降、『大菩薩峠』の執筆を再開し、『大阪毎日新聞』、『東京日日新聞』、『隣人之友』、『国民新聞』、『讀賣新聞』と連載誌(紙)を替えつつ1941年(昭和16年)まで書き継がれ、未完に終わったものの代表作となった。
1929年(昭和4年)、実業家・藤田勇の紹介で上京間もない合気道創始者・植芝盛平の道場(東京芝高輪町)に入門、見慣れぬ武技を熱心に観察したという〔出典:植芝吉祥丸著・植芝守央監修 『合気道開祖 植芝盛平伝』 出版芸術社、1999年、ISBN 4882931680、192頁、306-307頁。砂泊兼基 『武の真人―合気道開祖植芝盛平伝』 たま出版、1981年、ISBN 4884810708、156頁。〕。1933年(昭和8年)には古文書から武術に関する逸話などを網羅した『日本武術神妙記』を著す。1936年の総選挙では無所属で東京7区(当時)から出馬するも、最下位で落選する
戦時中に、文芸家協会が日本文学報国会に再編されたときに、入会を拒否したことでも知られている。
1944年(昭和19年)4月22日、腸チフスのため阿伎留病院に入院し、28日に死去。5月18日に大菩薩記念館において葬儀が挙行された。享年59。法名は、修成院文宗介山居士。墓は生まれ故郷である羽村市の禅林寺にある。
中里介山の資料は出生地である羽村市郷土博物館と大菩薩峠近くの甲州市の地元のNPO運営の資料館の二つが展示されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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