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幸徳秋水 : ミニ英和和英辞書
幸徳秋水[こうとく しゅうすい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さち]
 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune 
: [あき]
  1. (n-adv) autumn 2. fall 
秋水 : [しゅうすい]
 【名詞】 1. clear autumn water 2. clear fall water

幸徳秋水 : ウィキペディア日本語版
幸徳秋水[こうとく しゅうすい]

幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代ジャーナリスト思想家社会主義者無政府主義者である。
本名は、幸徳傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件(幸徳事件)で処刑された12名の1人。
== 経歴 ==
高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。尚、妻師岡千代子の父は幕末尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件首謀者とされている国学者師岡正胤である。
9歳の時、儒学者・木戸明修明舎に入り、四書五経等を学ぶ。11歳で旧制中村中学校(現:高知県立中村中学校・高等学校)に進学するも、台風で校舎が全壊しなかなか再建されず退学。
1887年(明治20年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。新聞記者を目指し、『自由新聞』(板垣退助社長。小泉策太郎と親友に)等に勤めた。同年に発布された保安条例で大阪に移った兆民は角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大日本壮士改良演劇会を旗揚げ、所謂壮士芝居の先駆となる。その時の演目の一つ「勤王美(義とも)談上野曙」は兆民が秋水に執筆を依頼したといわれる〔松本克平『日本社会主義演劇史 明治大正篇』(筑摩書房,1975)〕。
1898年(明治31年)より黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。萬朝報は日本に於けるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルを追求、「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である
1899年(明治32年)末には東京の新聞中発行部数一位に達し、最大発行部数は30万部となった。又一時淡紅色の紙を用いた為「赤新聞」とも呼ばれた。
秋水は記者のかたわら国民英学会等で学び、1900年(明治33年)8月30日、旧自由党系政党の憲政党が曾ての政敵である藩閥の伊藤博文と結び立憲政友会を結成したことを嘆き、『萬朝報』に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表した。また同年6月より起こった義和団の乱(北清事変)制圧の際、日本軍が清国の馬蹄銀を横領した嫌疑を『萬朝報』で追求し、陸軍中将真鍋斌を休職に追い込む。(馬蹄銀事件)。このことで真鍋や山県有朋の恨みを買い、これがのちの大逆事件につながったとする説がある〔小林一美『義和団戦争と明治国家』汲古書院、1986、ISBN 4762923346〕。
1901年(明治34年)、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を批判。これは当時、国際的に見ても先進的なものであった。又、この年田中正造足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は、まず秋水が書き、正造が手を加えたものである(正造が直訴状の執筆を依頼した者たちが後難をおそれてしりごみする中、秋水だけが断らずに書いたといわれる)〔足尾鉱毒明治天皇直訴文 〕。
1902年(明治35年)、『兆民先生』を発表。
1903年(明治36年)、日露戦争開戦以前は殆どの新聞の論調は戦争反対であったが、ロシアとの開戦へと世論の空気が押されていくなかで、『萬朝報』も社論を非戦論から開戦論へと転換させた為、堺利彦内村鑑三石川三四郎と共に発行元の朝報社を退社する〔坂野潤治田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,139頁〕。秋水と堺は非戦論を訴えつづける為に平民社を開業し、週刊『平民新聞』を創刊した。この頃、『萬朝報』で同僚だった斉藤緑雨が病で貧窮した為、「週刊・平民新聞」に、緑雨の為に「もゝはがき」という欄を設け、原稿料を得ることができるようにした〔師岡千代子 「夫・幸徳秋水の思い出」1946年東洋堂。〕。緑雨はその送金が待ちきれずに、病躯をおして平民社に受け取りに来る時も多くあり、秋水はいつも、小遣い銭を加えて渡すようにしていたという〔。
1904年(明治37年)、「与露国社会党書」発表、堺と「共産党宣言」を翻訳発表、即日発禁される。
1905年(明治38年)、新聞紙条例で入獄、獄中でクロポトキンを知り、無政府主義に傾く。出獄後11月、渡米、サンフランシスコに着く。アメリカに亡命していたロシアアナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交わり、アナルコ・サンディカリズムの影響を受けた。翌1906年4月18日サンフランシスコ地震を体験。その復興としての市民による自助努力に無政府共産制の状態を見る〔4月24日付で雑誌『光』へ秋水が寄せた一文より。〕。同年6月23日には地震の影響から帰国の途に就き、同年6月28日には帰国歓迎会が開かれた。この時に秋水はゼネラル・ストライキによる「直接行動論」を提唱。1906年(明治39年)、1月に成立した第1次西園寺内閣の融和政策のもと結党が認められた日本社会党において「国法ノ範囲内ニ於テ社会主義ヲ主張ス」という合法主義を掲げていたため、秋水の掲げた実力行使に対し、党内は大きく揺れることになり、労働者による普通選挙運動を主張する片山潜田添鉄二らの「議会政策論」と対立し袂を分けることになった。のち秋水は社会革命党を岩佐作太郎と結成。
1909年(明治42年)、『自由思想』発刊、即日発禁。
1910年(明治43年)6月、幸徳事件(大逆事件)において逮捕。秋水は湯河原の「天野屋」に小泉策太郎に勧められて来ており、愛人の管野須賀子の湯治を兼ねて宿泊中であった。翌年、有罪・死刑判決を受け、他の死刑囚とともに1月24日処刑された。こうした当局の対応には、当時すでに、国内で知識人層の中から批判があった。現在では、社会主義者の一掃を図る当局が事件発覚を奇貨として、事件への関与が薄く大逆罪に該当しない秋水らに対し、罪を捏造して処刑した、という評価が定説である。刑死者12名のうち、実際に皇族暗殺を計画・検討し、大逆罪に該当する可能性があるのは、管野須賀子、新村忠雄宮下太吉古河力作の4名のみと見られた。秋水は事件当時、首謀者の1人に名指しされた管野と平民社内で同棲中であり、暗殺計画の存在を知っていた可能性がないわけではないが、そもそも管野は肺病で長く療養中であり、彼女が首謀者であったという検察の主張にはかなり無理があった。
秋水は、獄中に面会に訪れた妻千代子の手弁当に手を全くつけないほど、関係は冷え切っていたが、墓は、高知県四万十市の正福寺のその妻千代子の墓と隣接してある。碑銘は小泉策太郎(小泉三申)。
高知地方検察庁高知地方裁判所の裏手にあり、戦前は墓碑に鉄格子がはまっていた。刑死後も猶、当局に監視されていた〔梅田俊英「近代日本における社会運動と高知県 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「幸徳秋水」の詳細全文を読む




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