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中原淳一 : ミニ英和和英辞書
中原淳一[なかはら じゅんいち]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中原 : [ちゅうげん]
 【名詞】 1. middle of a field 2. middle of a country 3. field of contest 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [いち]
  1. (num) one 

中原淳一 : ウィキペディア日本語版
中原淳一[なかはら じゅんいち]

中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年大正2年)2月16日 - 1983年昭和58年)4月19日)は、画家ファッションデザイナー編集者イラストレーター人形作家。妻は宝塚歌劇団男役トップスターの葦原邦子。長男は画家の中原洲一。姪はシャンソン歌手の中原美紗緒。孫は俳優・声優の加古臨王
幼少の時より絵や造形に才能を示し、18歳の時、趣味で作ったフランス人形が認められ東京の百貨店で個展を開催。それがきっかけで雑誌『少女の友』の挿絵、口絵、表紙絵、付録等を手掛けるようになり、一世を風靡する人気画家となる。
終戦後は、女性に夢と希望を与え、賢く美しい女性になってほしいとの理想に燃え、自分の雑誌『それいゆ』(1946年)『ひまわり』(1947年)『ジュニアそれいゆ』(1954年)『女の部屋』(1970年)を相続いて創刊。編集長として女性誌の基礎を作っただけでなく画家、ファッションデザイナー、スタイリスト、インテリアデザイナー。人形作家など多彩な才能を発揮。その全ての分野において現代につながる先駆的な存在となる。昭和30年代半ば、病に倒れ、長い療養生活の後、70才にて逝去。
2000年(平成12年)に山梨県河口湖に中原淳一美術館が開館。のちに閉館。
2004年(平成16年)7月には、東京・広尾に中原淳一グッズ専門店「それいゆ」がオープン。現在、中原淳一の著作権は株式会社ひまわりやが管理し、定期的に原画展を行っている。
==経歴==
;1913年(大正2年)
:2月16日、香川県大川郡白鳥本町(現・東かがわ市)に生まれる。
;1915年(大正4年)
:父親の転職により一家で徳島県徳島市に転居〔『別冊太陽 美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事』 平凡社 1999年平成11年)、p176、178-183〕。
;1924年(大正13年)
:母とともに広島県広島市に転居、広島女学院付属小学校に転入。代用教員時代の杉村春子と知り合い、生涯にわたり交遊を持った〔。
;1925年(大正14年)
:同小学校を卒業し母とともに上京。おかっぱ頭の内気な少年で、早くに父を失い、母と2人の姉に囲まれ育った。姉たちと一緒に西洋人形を作ることが大好きだった。
;1928年昭和3年)
:日本美術学校入学。本格的に西洋絵画を学ぶ。
;1932年(昭和7年)
:3月、銀座松屋にてフランス風人形の個展を開催。
:これを機に雑誌『少女の友』の専属画家として表紙、挿絵を手がけるようになる。
::しかし、戦争が始まると、優美でハイカラ、かつ目が大きく西洋的な淳一のイラストが軍部から睨まれた。軍部の圧力により、淳一のイラストは1940年(昭和15年)5月号を最後に掲載されなくなった。
;1940年(昭和15)
:1月、千代田区麹町に自身のグッズを扱う雑貨店「ヒマワリ」を開店。
:6月、『きものノ絵本』を通信販売で発行。
:11月、宝塚歌劇団男役トップスターの葦原邦子と結婚。のち二男二女に恵まれる。
;1945年(昭和20年)
:3月に招集、8月に復員。
;1946年(昭和21年)
:5月、神保町にて雑貨店「ヒマワリ」を再開。
:8月、雑誌『ソレイユ』(フランス語で太陽、ひまわり。後のそれいゆ)を創刊する。国土が荒廃し物資が不足していた時代に、生活を豊かにする方法を多くの女性に授けることで爆発的な売れ行きを示した。「ヒマワリ社」(後の「ひまわり社」)を設立。

;1947年(昭和22年)
:雑誌『ひまわり』を創刊。
;1952年(昭和27年)
:『ひまわり』12月号にて廃刊。翌年、『それいゆ』臨時増刊として「ジュニア号」を発行。(のちの『ジュニアそれいゆ』の原形となる)
;1954年(昭和29年)
:雑誌『ジュニアそれいゆ』を創刊。
;1958年(昭和33年)
:7月に心筋梗塞のため入院。12月、退院。
;1959年(昭和34年)
:7月に脳溢血のため入院。10月、退院。
;1960年(昭和35年)
:心臓発作のため入院。『それいゆ』『ジュニアそれいゆ』は廃刊となる。
;1961年(昭和36年)
:千葉県館山市にて療養生活となる。
;1964年(昭和39年)
:渡仏し半年後に帰国。徐々に仕事を再開する。
;1970年(昭和45年)
:3月、雑誌『女の部屋』創刊するも、体調悪化のため5号で廃刊となる。
;1972年(昭和47年)
:脳血栓で倒れ、館山市の高英男の別荘にて療養生活〔高橋洋一『中原淳一 美と抒情』巻末年表より〕。
;1979年(昭和54年)
:脳血栓と心臓発作のため入退院を繰り返す。
;1983年(昭和58年)
:4月19日、永眠。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中原淳一」の詳細全文を読む




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