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三宅裕司 : ミニ英和和英辞書
三宅裕司[みやけ ゆうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [たく]
 【名詞】 1. house 2. home 3. husband 

三宅裕司 : ウィキペディア日本語版
三宅裕司[みやけ ゆうじ]

三宅 裕司(みやけ ゆうじ、1951年5月3日 - )は、日本コメディアン俳優タレント司会者
東京都千代田区神田神保町出身。アミューズ所属。劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)の座長。明治大学経営学部卒業。
==経歴 ==
家業は印刷業。実父は8ミリ映画の撮影を趣味に持ち、実母は松竹歌劇団(SKD)出身で日本舞踊の名人、伯母もSKDの元団員であった。母の影響で幼い頃から日本舞踊、三味線長唄小唄などを習う。中学時代から落語バンドを始めた。
乳児期は、近所に住んでいた画家いわさきちひろの乳を飲んで育つ。当時、ちひろは乳飲み子だった息子・松本猛安曇野ちひろ美術館館長)をやむなく安曇野の両親に預けていたため、母乳が途切れぬようにと三宅に乳を与えていた。また、曾祖父が郵便制度の父と呼ばれる前島密と兄弟であると『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテレフォンショッキング出演時に明かし、司会のタモリに1円切手のシート(額入り)をプレゼントした。
千代田区立一橋中学校を経て明治大学付属明治高等学校に進学し、明治大学経営学部を卒業。明治大学の同期に日本テレビ元アナウンサーの松永二三男がいる。後輩にNHKアナウンサーの石澤典夫、落語研究会でも後輩だった落語家立川志の輔立川談之助立川談幸、タレントの渡辺正行がいた。クレイジーキャッツの『無責任一代男』に影響され、大学時代は「カンニングしなかった試験科目はない」「チャックの筆箱の中にフランス語の試験範囲の仏文と和訳と全部書いたりね」「最初から(優・良・可の)可を狙うんです」と発言している〔『植木等のみなさんおそろいで』p.202-203における三宅の発言。〕。
大学時代、4代目「紫紺亭志い朝」を襲名。卒業と同時に5代目を立川志の輔に譲り、その志の輔も卒業と同時に5代目を渡辺正行に譲った。
大学卒業後は喜劇役者を目指して日本テレビタレント学院に入ったが、生徒が若い人ばかりでなじめず3か月で辞め、その後、劇団東京新喜劇に入るも一度も公演せずに劇団自体が潰れてしまう。コントグループ・少年探偵団を経て、斉藤洋介らと共に劇団大江戸新喜劇の旗揚げに参加するが、「笑いの質が違う」(三宅談)と一度も舞台に立たないまま脱退した。
その時行動を共にした小倉久寛八木橋修ら15人のメンバーと、1979年、劇団スーパー・エキセントリック・シアターSET)を旗揚げ。現在に至るまで座長を務め、一貫して東京の笑いを追求し続けている。コンセプトは「ミュージカル・アクション・コメディ」。年に一度の本公演では、結成から30年以上経った今でも東京公演のみで1万6000人以上の観客を動員し、チケットも即完売するなど人気を博している。元劇団員には岸谷五朗寺脇康文水木薫小粥よう子らがいる。
1984年、32歳の時にニッポン放送のラジオ番組『三宅裕司のヤングパラダイス』のパーソナリティを務めたことで一気に知名度を得る。『テレビ探偵団』や『三宅裕司のいかすバンド天国』をきっかけに、明朗快活な雰囲気に加え、キレの良い会話と相手の話に対する反応の良さ、切り返しの巧さで、以後数々のバラエティ番組の司会を務める。
1986年6月9日、結婚。
2004年からは毎年、東京の笑いである軽演劇を継承すべく、師と仰ぐ伊東四朗や、渡辺正行、小倉久寛らと共に『伊東四朗一座』を公演し(伊東が不参加の時は『熱海五郎一座』と称する。由来は「伊東」の手前で「熱海」、「四朗」の次で「五郎」)、そこでも舞台を引っ張っていく手腕を遺憾なく発揮している。伊東四朗一座・熱海五郎一座はのべ10万人以上の観客を動員し、チケットは入手困難なプレミアチケットとなっている。また、伊東とはコントライブ『いい加減にしてみました』も不定期に上演している。
2007年には学生時代からの夢であった、17人編成のビッグバンド「三宅裕司&Light Joke Jazz Orchestra」を結成。SETの舞台に参加したり、ライブ活動を行ったりしている。ライブでは笑いをふんだんに取り入れたトークや映像を使うなどして、ジャズに馴染みのない人でも楽しめる構成になっている。三宅以外は全員プロのミュージシャンで編成され、ライブには小曽根真カルロス菅野寺井尚子、アルベルト城間といった本格派から、グッチ裕三コロッケ戸田恵子など、バラエティに富んだ三宅の音楽仲間が参加している。
2011年7月30日、長年患っていた椎間板ヘルニアの症状が悪化、救急搬送されて緊急手術を行った。術後、下半身の感覚が殆んどない状態が続き、長期のリハビリ期間を必要としたため、年内いっぱいを目処に休養する旨を明らかにする。年内に企画されていた舞台やライブなどは全て中止された。レギュラー番組は元劇団員の岸谷五朗や寺脇康文、同じ事務所に所属しているタレントらが代役を務めた。2012年1月1日、ラジオ『サンデーヒットパラダイス』の生放送で復帰した。
長年、ニッポン放送聴取率に貢献している人気ラジオパーソナリティであることから、1990年2000年ニッポン放送年末特別番組ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』のメインパーソナリティを10年おきに担当している。三宅自身も普段レギュラー担当している番組の『裕司と雅子のガバッといただき!!ベスト30』『三宅裕司のザ・ベスト30"スゲェ!"』『三宅裕司 みんなのヒット!ベスト20+10』ではほぼ毎年必ず年末の放送で『ミュージックソン』に近づくと「10年おきにやってるんだ」と語っており、このまま順調にニッポン放送にレギュラー出演していれば2010年にも再びメインパーソナリティを任されるかが注目されていた。しかし、2010年のメインパーソナリティはオードリーが担当することになり、三宅の10年ぶり3度目の登板とはならなかった。
かつて、テレビ朝日系金曜日21時枠で3本のレギュラー番組の司会を務めていたが(『驚きももの木20世紀』『世界痛快伝説!!運命のダダダダーン!』『笑いの金メダル』)、3本とも一定の人気を得ていたにもかかわらず、編成の都合により打ち切り・枠移動に失敗して終了するという不遇な終了を迎えた(同時期に他局でもゴールデンタイムのレギュラー番組を持っていたため、露出が減っていたわけではない)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三宅裕司」の詳細全文を読む




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