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マージョリー・ストーンマン・ダグラス : ミニ英和和英辞書
マージョリー・ストーンマン・ダグラス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マージョリー・ストーンマン・ダグラス : ウィキペディア日本語版
マージョリー・ストーンマン・ダグラス[ちょうおん]

マージョリー・ストーンマン・ダグラス(、1890年4月7日 - 1998年5月14日)は、アメリカ合衆国ミネソタ州出身のジャーナリスト著作家フェミニスト環境保護主義者である。特にフロリダ州の広大な湿地であるエバーグレーズを、開発のために排水して埋め立てようという動きに対して、頑強にその保護を訴えたことで知られている。若い女性として「マイアミ・ヘラルド」で働くためにマイアミ市に移転し、フリーランス・ライターとなり、100編以上の短編小説を人気ある雑誌に掲載した。その著作の中で最も影響を与えたのは、『エバーグレーズ: 草の川』(1947年出版)であり、エバーグレーズを価値のない沼地の変わりに宝の川だという認識を人々に与えた。その影響力はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962年出版)にも譬えられてきた。その著書、短編、ジャーナリストとしての経歴がマイアミでの影響力となり、それを自分の主張のために使った。
ダグラスは若い女性の時であってもずけずけと発言し、女性参政権公民権など多くの問題について政治的な関心が高かった。79歳の時に、エバーグレーズの保護運動で中心的な役割を果たすために呼び出された。彼女の人生でその後の29年間、南フロリダの自然の保存と修復のために「絶え間ない報告者であり恐れを知らない活動家」だった〔Grunwald, p. 204.〕。彼女の疲れを知らない活動によって、「エバーグレーズのグランド・デイム」など様々なニックネームを獲得し〔Basse, Craig (May 14, 1998). "Grande dame of the Everglades." ''St. Petersburg Times'' (Florida); p. 1A.〕、逆にフロリダの開発から利益を求めていた農業や事業の関係者からは敵意を持たれた。大統領自由勲章など数多くの賞を与えられ、幾つかの殿堂入りも果たした。
ダグラスは108歳まで生き、その最期に近い時までエバーグレーズの修復のために働いた。その死のときに、ロンドンの新聞「インデペンデント」の死亡記事では、「アメリカの環境保護運動の歴史で、マージョリー・ストーンマン・ダグラスほど注目された人物は居なかった」と記していた〔Cornwell, Rupert (May 25, 1998). "Obituary: Marjory Stoneman Douglas." ''The Independent'' (London); p. 16.〕。
== 生い立ち ==

マージョリー・ストーンマン(以下ではマージョリーと記す)は1890年4月7日にミネソタ州ミネアポリスで生まれた。父はフランク・ブライアント・ストーンマン(1857年-1941年)、母はコンサート・バイオリニストのリリアン・トレフェセン(1859年-1912年)であり、その一人っ子だった。マージョリーの思い出で最も幼い時のものは、父が『ハイアワサの歌』(ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー叙事詩)を読み聞かせていたことであり、ハイアワサがカヌーを作る木材のために、木がその命を与えることを聞いて、マージョリーがめそめそと泣き出したことだった〔Douglas, p. 42.〕。マージョリーは幼いときから旺盛な読書家だった。最初に読んだ本は『不思議の国のアリス』であり、その本を大人になるまで持っていて「人の友情という形態はその本から得られたものに違いなく、それに戻すことはできないものである」と言っていた〔。4歳の時にフロリダを訪れて、その旅で最も生き生きとした記憶は、タンパベイ・ホテルでオレンジの木から実を摘んだことだった〔Douglas, p. 31.〕。マージョリーとその両親はタンパからクルーズ客船に乗ってハバナに渡った〔Duncan, Scott (May 15, 1998). "Marjory, we loved you so." ''The Miami Herald''; Commentary.〕。
マージョリーが16歳の時に両親が別居した。父は一連の起業に失敗し、母はその不安定さに耐えかねて、突然マサチューセッツ州トーントンにあったトレフェセン一族の家に移った。マージョリーはそこで母、叔母、祖父母と共に暮らした。祖父母はマージョリーの父とうまく行っておらず、常に悪く言っていたので、マージョリーにとっては困惑させられるものだった〔Davis, p. 95.〕。マージョリーは母が「緊張感が高い」と言っていたが、その母は何度かロードアイランド州プロビデンスにある精神病院に入院した。両親の別居と母の一族との議論の多い暮らしのためにマージョリーは夜驚症を患うようになった〔Douglas, pp. 47, 48.〕。マージョリーはその希薄なしつけしか受けていないために、人生の残り期間に「懐疑的で満足しない人」となった原因だと言っていた〔Douglas, p. 50.〕。
マージョリーは若い時に、読書の中に癒しを見つけており、その結果書くことを始めた。16歳のときに、当時最も人気があった子供向け出版物の「セントニコラス・マガジン」に『二重の見出しと縮減』と題するパズルを投稿した。この雑誌にはF・スコット・フィッツジェラルド、レイチェル・カーソン、ウィリアム・フォークナーなど20世紀の作家達も最初に掲載された。1907年『早朝のパドル』と題する物語で「ボストン・ヘラルド」から賞を与えられた。この物語はカヌーから日の出を見ている少年の話だった〔Davis, p. 100.〕。しかし、母の精神病が悪化して、マージョリーの責任が高まり、一家の財政の幾らかを管理し、その環境に合わせて成熟していくことになった〔Douglas, pp. 53–54.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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