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ボルテール : ミニ英和和英辞書
ボルテール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ボルテール ( リダイレクト:ヴォルテール ) : ウィキペディア日本語版
ヴォルテール[ちょうおん]

ヴォルテールことフランソワ=マリー・アルエ("Voltaire" François-Marie Arouet、1694年11月21日 - 1778年5月30日)は、フランス哲学者であり、作家文学者歴史家である。歴史的には、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する人物とされる。また、ドゥニ・ディドロジャン・ル・ロン・ダランベールなどとともに百科全書派学者の一人として活躍した。ボルテールと表記されることもある〔ボルテールとは コトバンク〕。
パリ公証人の子。姓は“アルーエ”とも表記される〔エイヤー 1991。〕。Voltaireという名はペンネームのようなもので、彼の名のArouetをラテン語表記した"AROVET LI" のアナグラムの一種、「ヴォロンテール」(意地っぱり)という小さい頃からの渾名(あだな)をもじった等、諸説ある。
== 経歴 ==
フランソワ・マリー・アルエ(以下、アナグラムのヴォルテールで記す)は、1704年から1711年までの間、イエズス会ルイ=ル=グラン学院で最高の教育を受けた。彼は優秀な生徒で、イエズス会は『ジュヌヴィエーヴによせるルジュ神父のオードの模倣』を1710年に出版するほどだった。しかし、彼はイエズス会士や司法官ではなく、詩人になろうと決心した。アカデミー・フランセーズの詩の賞を受ける。〔トレモリエール&リシ編 2004、400頁。〕 1716年に摂政の恋愛についての詩を書いたために、シューリー・シュール・ロワールの城に引きこもった。
若い頃から詩編をたびたび出版し続けた。そして、フランスの政治や政府を痛烈に中傷する詩を書き、流布し続けたあげく、1717年5月、彼はバスティーユ牢獄に投獄され、11ヶ月間を過ごした。22歳から23歳の頃である。そして、彼、フランソワ=マリー・アルエが「ヴォルテール」という筆名を用いたのはまさにこの時期であった。〔エイヤー 1991、5-6項。〕
1718年11月18日、ヴォルテールがその生涯に大量に書き残す韻文悲劇の処女作、『エディップ(オイディプス)』がコメディー・フランセーズにて初公演された。この頃は、まだヴォルテールはバスティーユから釈放された直後であり、パリ在住の仮認可だけしか得られなかった時期である。しかし劇は大成功を収め、45回という異例の回数にわたって上演された。このことからヴォルテールは摂政より金メダルと年金を受け、ジャン・ラシーヌピエール・コルネイユとも並ぶ大物作家になった。〔エイヤー 1991、第一章。〕
名門貴族とのトラブルののち、1726年4月17日、再びバスティーユに投獄された。この投獄は名門貴族のロアン家が後ろから手を回してヴォルテールの逮捕状を取ったものであり、以降、世論はヴォルテールを味方するようになり、大勢の面会者が彼の下を訪問した。すぐにヴォルテールは釈放され、同年5月11日、彼は自らの意志でイギリスへ向かった。このことについては当局も快諾している。そして、これが彼にとっての最初のイギリス渡航であり、彼のその後の哲学に大きな影響を与えることとなった。これは、人間の理性を信頼し、自由を標榜していたヴォルテールにとって、イギリスの自由な風潮から当時のフランスの前時代的封建的性格を思い知り、同時にイギリスに感銘を受けたということである。また、イギリスで大きな影響力を持っていたジョン・ロックアイザック・ニュートンらの哲学を深く知ったこと、イギリスの哲学研究に惹かれた。このことが『哲学書簡』の発表に繋がることになる。
有名な『哲学書簡』は、1733年にイギリスのロンドンにおいて英語で発表した。この時点ではまだあまり注目されていなかったようである。翌年、オランダアムステルダムでその海賊版が大量に刷られ、フランスのパリにも大量に流れ込むことになる。結果、この『哲学書簡』では自国よりもイギリスの諸制度の方がはるかに優れているという論調であったため、フランスの愛国者の怒りを買い、1冊が見せしめに焼かれ、ヴォルテールにはまた逮捕状が出された。この際、ヴォルテールはまずオランダに逃れ、その後ロレーヌのシレーにあるデュ・シャトレ家の館に隠れた。しかし、友人の尽力により、すぐに告発は無効とされ、ヴォルテールはパリへ帰った。〔エイヤー 1991。〕
『形而上学論』を書き、『習俗論』を書いた。一方、ニュートンの『自然哲学の数学的原理』の翻訳に接して、1738年『ニュートン哲学要綱』を著し、ニュートン思想の流布に一役買った。〔トレモリエール&リシ編 2004、412-413頁。〕
文学哲学歴史学など多様な分野の第一線で活躍し、1750年には、プロイセンフリードリヒ大王を訪問した。帰国後「百科全書」にも寄稿した(直後に「百科全書」は出版許可が取り消される)。それまでの彼の活動を寓話的に総括し、合わせてゴットフリート・ライプニッツの「弁神論」に代表される調和的で楽観的な世界観を批判したのがコント『カンディード』(1759年)といえる。1760年にスイス国境に接するフランスの街フェルネーに居を定めてからは、折から生じたカラス事件などをきっかけに、自由主義的な政治的発言を活発に行った。この時期の代表作として、『寛容論』(1763年)、『哲学辞典』(1764年)などがあげられる。1778年4月7日パリでベンジャミン・フランクリンによりフランマソヌリに入会しフリーメイソンとなる。
つねに目立ったところで行われた反ローマ・カトリック、反権力の精力的な執筆活動や発言により、ヴォルテールは18世紀的自由主義の一つの象徴とみなされた。没後、パリの教会が埋葬を拒否したためスイス国境近くに葬られたが、フランス革命中の1791年ジロンド派の影響によって、パリのパンテオンに移された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Voltaire 」があります。




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