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ベアテ・シロタ=ゴードン : ミニ英和和英辞書
ベアテ・シロタ=ゴードン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ベアテ・シロタ=ゴードン ( リダイレクト:ベアテ・シロタ・ゴードン ) : ウィキペディア日本語版
ベアテ・シロタ・ゴードン[ちょうおん]

ベアテ・シロタ・ゴードンBeate Sirota Gordon, 1923年10月25日 - 2012年12月30日)は、ウィーン生まれでウクライナユダヤ人ロシア統治時代)の父母を持ち、少女時代に日本で育った米国国籍舞台芸術監督フェミニスト1946年日本国憲法制定に関わった人物として知られており、このうち2012年まで存命した唯一の人物であった。
22歳で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、GHQ憲法草案制定会議のメンバーとして日本国憲法の起草人権条項作成に関与した。
日本では日本国憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)草案を執筆した事実が1990年代になって知られ、著名となった。戦後はニューヨークに居を構え、ジャパン・ソサエティ、アジア・ソサエティのプロデューサー・ディレクターとして世界の民俗芸能を米国に紹介。アジア・ソサエティを退職後、パフォーミング・アーティストを集めて世界中を公演するキャラバン(文化交流事業)の実現を目指した。
2012年12月30日、膵臓がんのためニューヨークの自宅で死去〔ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去 憲法草案作成携わる 朝日新聞 2013年1月1日閲覧〕〔ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去=日本国憲法起草に従事 時事通信 2013年1月1日閲覧〕。。
== プロフィール ==

=== 生い立ち ===
ベアテ・シロタは1923年10月25日、ウィーンのヴェーリンガー通り58番地で、ロシア(現・ウクライナキエフ出身のユダヤ人でピアニストとして有名な父レオ・シロタと、同じくキエフ出身でユダヤ人貿易商の娘として育った母オーギュスティーヌ(Augustine Sirota、旧姓ホレンシュタイン Horenstein、1893年7月28日 - 1985年7月20日)の間に生まれた。叔父に指揮者ヤッシャ・ホーレンシュタインがいる。
名前は母親が敬愛するウィーンの作家シュテファン・ツヴァイクの作品に登場する人物「ベアテ夫人」から命名。
父も母も1917年のロシア革命のユダヤ人排斥によって国に帰れなくなっておりオーストリア国籍を取得していたため、ベアテの国籍はオーストリアとなった。
当時、フェルッチョ・ブゾーニに師事した父のレオ・シロタは「リストの再来」と呼ばれ、すでに国際的に著名なピアニストで、ベルリンパリブリュッセルフランクフルトザルツブルクロンドン、あるいは、極東のウラジオストックにまで遠征公演に明け暮れていた。
ハルビン公演を聞いた山田耕筰が1928年5月18日、ホテルを訪れ、日本での公演を依頼。レオはその年に訪日して一カ月で16回の公演を行ない、訪日中、山田耕筰はレオを東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘する。
そのころのヨーロッパは経済が不安定で、公演キャンセルがたびたびあり、ドイツを中心として反ユダヤ主義が台頭してきたため、一家三人は半年間の演奏旅行のつもりで1929年の夏、シベリア鉄道でウラジオストックへ、そして海路で横浜入りし、父レオは東京音楽学校ピアノ科教授に赴任。
同僚には、作曲家のクラウス・プリングスハイムなど錚々たる音楽家が名を連ね、当時の東京音楽学校は欧米の一流音楽大学に比べても遜色のない世界最高水準の教授陣を擁していた。
この年1929年10月24日ウォール街株価大暴落に端を発した世界恐慌が起きている。
五歳半で初来日したベアテは、日本人がみな黒い目で黒い髪であることに驚き「ねぇ、ママ、この人たちはみんな兄妹ですか」と母に尋ねる。
このことがベアテにとって、日本の第一印象だったと、後年、著作や講演、インタビューで繰り返し語るエピソードとなっている。
シロタ家は東京市(現・東京都赤坂区(現・港区)檜町十番地の、いわゆる乃木坂近辺に居を構え、ベアテは日本での生活を開始。9月にはドイツのナショナル・スクール東京大森ドイツ学園(現・東京横浜ドイツ学園 DSTY: Deutsche Schule Tokyo Yokohama)に入学。
半年間滞在のはずが、世界恐慌によりヨーロッパで未曾有の不況が続く一方、ドイツでは1930年9月にユダヤ人を排斥するナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)が総選挙で第二党となったため、シロタ家は日本滞在を続けることにした。
乃木坂のシロタ家では、母オーギュスティーヌがたびたびパーティを開き、山田耕筰近衛秀麿近衛文麿の弟)、画家でロシア文学教師のワルワーラ・ブブノワやその妹でヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まるサロン(社交場)となる。
日常的にドイツ語、日本語、英語、ロシア語、フランス語が飛び交う環境で暮らし、ベアテにピアノの才能はないという母の判断により、家庭教師について英語とフランス語を学ぶ。
パーティーで好きな曲を聞かれて「ストラヴィンスキー」と答え、客を驚かせた。当時、ストラヴィンスキーを聞いたことのある人は稀だったからだが、父レオが好んで弾いたため、ベアテにとってはなじみの作曲家だったのである。
6歳のころから、ピアノとダンスを習い、さまざまなコンサート、オペラ、日本の伝統芸能を含む芝居などに馴染み、成長期に日本の文化を積極的に吸収して育つ。
また、一家とともに暮らしたのは、父母のほかに、江の浦(静岡県沼津市)出身で網元の娘の小柴美代らお手伝いさんと、エストニア人の英語教師。小柴美代は、とりわけ身近に接した日本人女性だったため、ベアテの精神形成に大きな影響を与えたとする指摘は多い。
日本女性の地位の低さを、小柴美代から「子守歌のように」聞かされていた経験が、のちに憲法24条草案を積極的に書かせる動機になった、との指摘もある〔鈴木昭典著『日本国憲法を生んだ密室の九日間』創元社、1995年5月〕。
またベアテ自身も後年、小柴美代との出会いを折に触れ述懐しているうえ、1966年にはニューヨークに呼び寄せてもいる。
1936年2月26日、二・二六事件の際、ベアテは自宅の門に憲兵が歩哨に立つのを目撃。このころ通っていた東京大森ドイツ学園にナチス党員の教師が派遣され、毎朝「ハイル・ヒトラー」のあいさつや「ホルスト・ヴェッセル・リート」(ナチス党歌)の斉唱を強いられ、またベアテは危険思想をもつ問題児と白眼視されたため、目黒区(元千代田生命本社、現・目黒区役所)にあるアメリカンスクール・イン・ジャパン に転校、ここで卒業までの残り二年間を過ごす。
日本での10年弱の生活で、ベアテはすでにロシア語(両親の母語)、ドイツ語(幼少時代とドイツ学園)、フランス語(家庭教師)、英語(家庭教師)、ラテン語(ドイツ学園とアメリカン・スクール)、さらに日本語を習得していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ベアテ・シロタ・ゴードン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Beate Sirota Gordon 」があります。




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