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フレンチ・インディアン戦争 : ミニ英和和英辞書
フレンチ・インディアン戦争[ふれんち いんでぃあんせんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 

フレンチ・インディアン戦争 : ウィキペディア日本語版
フレンチ・インディアン戦争[ふれんち いんでぃあんせんそう]

フレンチ・インディアン戦争(フレンチ・インディアンせんそう、French and Indian War、1755年 - 1763年)は、七年戦争のうち、北アメリカを舞台に繰り広げられた一連の戦闘である。イギリス領アメリカ植民地ヌーベルフランスが主な戦場となり、いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われた。1756年、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争となった。カナダでは、一部の歴史家がこの戦争を単に七年戦争と呼ぶが、フランス系カナダ人はしばしば、この戦争のことをラ・ゲール・ド・ラ・コンケットLa Guerre de la Conquête(征服戦争)と表現する。
ヨーロッパでは、北アメリカで行われたこの戦争に関して、特に決まった呼び名はない。この名はイギリス人入植者の、2つの主な敵、フランス王国の軍、フランス軍と同盟を結んだ様々なインディアンの部族のことである。しかしイギリスもまたインディアンと同盟を結んでいた。しかし、イギリス側からの視点でフランスがインディアンと同盟していたと見るため、「フランスとインディアンとの戦争(French and Indian War)」と呼ばれる。この戦争は、従来の植民地戦争とは違い、欧州の戦争に先立つ植民地での衝突火ぶたが切られた。
戦場は主にヌーベルフランスと、バージニア植民地からノバスコシアに至るまでのイギリス人入植地との境界に沿って行われた。戦争の発端は、アレゲニー川と、モノンガヘラ川が合流する場所(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ)で起きた紛争だった。この紛争は1754年5月ジュモンヴィルグレンの戦いにおいて、バージニア民兵隊の指揮官、ジョージ・ワシントンが、フランスの巡回兵を待ち伏せして起こした暴動に発展した。1755年1756年そして1757年の、ペンシルベニアとニューヨーク植民地における作戦はことごとく失敗した。失敗の原因は、同盟を管理する上でのまずさ、内輪もめ、そしてフランスとインディアン同盟の攻撃が功を奏したためであった。1755年の、ノバスコシアと(フランス人入植地の)アカディアの境界で起きたボーセジュールの戦いは、イギリスがアカディア人をこの地から追い出した結果、アカディア人の抵抗が起きたものである。
1757年、イギリスにとって惨憺たる敗戦が続いた。ルイブールへの遠征の失敗に続き、ウィリアム・ヘンリー砦の戦いでは、インディアンによりイギリス兵にかなりの残虐行為がなされた。イギリス本国政府は評価を落とし、ウィリアム・ピットが首相に返り咲いた。ピットは植民地の軍事力を大幅に増やし、一方フランスは、ヌーベルフランスの限られた戦力の援助のために、護送船団を出すのには乗り気でなく、代わりに、ヨーロッパの戦争で、プロシャとその同盟国に対する軍事力を結集するのを優先させた。1758年から1760年の間、イギリス軍はヌーベルフランスの中心地ケベックの陥落に成功し、1760年9月、ついにモントリオールを攻略した。
この結果、イギリスは第二次百年戦争ともいえる北米植民地戦争の参戦国で最も大きな発展を遂げることとなった。フランスはミシシッピ川以西のルイジアナを同盟国のスペインに割譲した、これは、スペインが敗戦によりフロリダをイギリスに割譲した、その代償だった。スペインは、イギリスにフロリダを割譲した見返りに、キューバハバナを手に入れた。カリブ海から北のフランスの植民地は、サンピエール島とミクロン島〔現在もフランスの海外領土(海外準県)である。〕だけになった。これにより、イギリスは、北アメリカ東半分の植民地勢力の支配を固めた。
==名前の由来==

植民地同士の戦争は何通りかの呼び名がある。イギリス領のアメリカ植民地では、17世紀後半から、ヨーロッパの戦争に呼応して起こった植民地戦争が、その時々の君主の名前にちなんで、たとえばウィリアム王戦争アン女王戦争ジョージ王戦争と呼ばれていた。すでに1740年代の戦争にジョージ王の名が冠せられていたため、やはりジョージ王治世下に起こった1750年代の戦争は「フレンチ・アンド・インディアン戦争」と呼ばれた〔。この呼び名はアメリカ合衆国で定着しているが、この名前は、インディアンが英仏どちらにも加担していたという事実がぼやけてしまっている〔Jennings, p. xv.〕。アメリカの歴史家は、この呼び名か、ヨーロッパ式の「七年戦争」を用い、他にも、あまり頻繁ではないが「第四植民地戦争」や「イギリス帝国大戦争」Great War for the Empireという名を使ったりもする〔Anderson (2000), p. 747.〕。
ヨーロッパでは、北アメリカを戦場とした七年戦争の決まった呼び名はない。ヨーロッパ以外の地域をひっくるめて七年戦争として知られている。この七年というのはヨーロッパの戦争に関するものである、正式な宣戦布告が1756年に行われ、1763年パリ条約までに7年を要したからである。実際に北アメリカ本土で行われた戦いの年数は、6年で終わっている。1754年ジュモンヴィルグレンの戦いから1760年モントリオールの攻略までの6年間である〔。
カナダでは、フランス系住民もイギリス系住民も、ヨーロッパと北アメリカの戦争の双方を七年戦争(英Seven Years War、仏la Guerre des Sept ansゲール・ド・セタン)としている〔The Canadian Encyclopedia: Seven Years' War .〕〔 L'Encyclopédie canadienne: Guerre de Sept Ans .〕。フランス系カナダ人は「征服戦争」(ゲール・ド・ラ・コンケット)という表現をすることもある〔La guerre de la Conquête (1756-1760) 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フレンチ・インディアン戦争」の詳細全文を読む




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