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ジュモンヴィルグレンの戦い : ミニ英和和英辞書
ジュモンヴィルグレンの戦い[じゅもんヴぃるぐれんのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ジュモンヴィルグレンの戦い : ウィキペディア日本語版
ジュモンヴィルグレンの戦い[じゅもんヴぃるぐれんのたたかい]

ジュモンヴィルグレンの戦い(ジュモンヴィルグレンのたたかい、)またはジュモンヴィル事件(Jumonville affair)は1754年5月28日の戦闘で、フレンチ・インディアン戦争の最初の戦いである。現在の、ペンシルベニア州ユニオンタウンの近くで、ジョージ・ワシントン率いるバージニア植民地軍、および同盟軍であるミンゴ族の兵が、ジョゼフ・クーロン・ド・ヴィリエ・ド・ジュモンヴィユ率いるヌーベルフランス民兵を待ち伏せした。
元々イギリスが、オハイオ川の起点の地域(現在のピッツバーグ)に砦を建設していたところ、フランスこの地が領有を主張し、これを受けてバージニア植民地軍が、フランス兵の野営地を取り囲んだもので、フランス軍に数名の戦死者が出、大部分が捕虜となった。ジュモンヴィユも殺害されたが、このことは今なお議論の争点となっている。
これにより七年戦争の火ぶたが切られ、ワシントンはこの戦いの後、ネセシティ砦の戦いで、再びヌーベルフランス軍と対戦することになった。この時ワシントンは降伏し、降伏文書に署名したが、フランス語の文書の意味を把握できないまま「ジュモンヴィユは暗殺された」とする旨に同意したこととなり、このため、ワシントンがジュモンヴィユ暗殺を企んだという非難が浴びせられることになった。
==フランスの戦争準備==

1740年代から1750年代初頭にかけて、多くのイギリスやカナダの交易業者が、オハイオ川の上流の流域を含めたオハイオ領土(現在のペンシルベニア州西部)に足を運ぶようになった〔O'Meara, pp. 10–12〕。ヌーベルフランス当局は、イギリス人業者やイギリスからの入植者を、この地域から追い出そうと躍起になり、1753年、オハイオに一連のを築き始めた〔O'Meara, pp. 15–19〕。
ヌーベルフランスのこの行動は、イギリスの業者のみならず、この地域のインディアンたちの注意をも惹いた。フランスとインディアンとは良好な関係であったにも関わらず、イギリス商人たちは、インディアンたちに、フランス系カナダ人より、自分たちと取引をするように言いくるめ、フランスの砦建設は、すべてに歓迎されたとはいえなかった〔O'Meara, p. 27〕。とりわけ、ミンゴ族の「ハーフ・キング」(half king)族長タナチャリゾンは、結果として、反フランスの立場となった。ある報告によれば、特にフランスの砦建築部隊の指揮官、ポール・マリン・ド・ラ・マルグは、タナチャリゾンに腹を立ててこう怒鳴った。「お前に言っておく、俺は川下に行く。もし川がふさがれていたら、俺の部隊で吹き飛ばして、俺に反対する奴らを踏みつけてやる。お前の馬鹿げたセリフなど軽蔑してくれるわ〔」そして、かつてタナキャリゾンが、善意の証としてくれたウォムパムを床に投げ落とした〔O'Meara, p. 28〕 。それから間もなくしてマリンは死んだ。建設部隊の新指揮官にはジャック・レガルデュール・ド・サンピエールが任命された〔O'Meara, pp. 4,30〕。
1753年12月バージニア植民地総督ロバート・ディンウィディーは、民兵少佐であるジョージ・ワシントンオハイオ領土(バージニアを含むニューイングランド植民地のいくつかが、この地をイギリス領土であると主張していた)に、密使として派遣し、フランスに立ち去るように言わせた。サンピエールは、ワシントンに対して丁寧に、自分は命令に従ってここにいると告げ、ワシントンが携えて来た書状は、自分の上官に送られるべきであること、そして立ち去る意思はないことを告げた〔O'Meara, pp. 3–5,33〕。
ワシントンはウィリアムズバーグへ戻り、ディンウィディーに、フランスが立ち退かない旨を知らせた〔Anderson, p. 45〕。ディンウィディーは、ワシントンに中佐の権限を与え、民兵の連隊を出動させて、オハイオ川の起点を抑えるように命じた。その地は、かつてワシントンが、砦の建設にふさわしい土地と特定していた場所だった〔Anderson, pp. 43–45〕。ディンウィディーはまた、オハイオカンパニーの一員であるウィリアム・トレントにも大尉の権限を与え、部隊を連れて、すぐに砦を建設するように指示を出した。ディンウィディーのこの2つの命令は、彼の職務権限で行ったもので、この命令が実現するまでは、バージニア立法府下院に、資金のことすら諮ろうとしなかった〔。トレントのオハイオカンパニーは、1754年2月に現地に到着し、タナチャリゾンとミンゴ族の助けを借りて、倉庫と砦柵を建て始めた〔Anderson, p. 46〕〔O'Meara, p. 49〕。
同じ月に、800人のヌーベルフランスの民兵と、フランスの海兵隊が、サンピエールの命を受けた、フランス系カナダ人のクロード=ピエール・ペコーディ・ド・コントルクールの指揮の下、モントリオールからオハイオバレーへ進軍を開始した〔Eccles, p. 163〕。トレントの砦建設を知らされたコントルクールが、海兵隊と民兵、そしてインディアンから成る500人の部隊を使って、トレント軍を追い払おうとした。(トレントの兵は、1,200人いたとも言われている)4月16日、コントルクール軍はオハイオ川の起点に到着した。翌日、トレント不在の間の代理指揮官、エドワード・ウォードに率いられていた36人の兵は、その場を立ち去るのに同意した〔O'Meara, pp. 50–51〕。そしてコントルクールの兵たちは、デュケーヌ砦と呼ばれる砦を作り始めた〔Anderson, p. 49〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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