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ヌーベルフランス : ミニ英和和英辞書
ヌーベルフランス[らんす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ランス : [らんす]
 【名詞】 1. lance 2. (n) lance

ヌーベルフランス : ウィキペディア日本語版
ヌーベルフランス[らんす]

ヌーベルフランス(、)は、1534年ジャック・カルティエセントローレンス川を探検した時期から、1763年パリ条約により、スペインイギリスにヌーベルフランスを移譲した時まで、フランスが北アメリカに植民を行った地域である。その頂点にあった1712年ユトレヒト条約の前)、領土は東はニューファンドランド島から西のロッキー山脈まで、北はハドソン湾から南のメキシコ湾までに拡大した。この領土はカナダアカディア、ハドソン湾、ニューファンドランド(プレサンス)およびルイジアナの5植民地に分割され、それぞれに管理政体が置かれた。ユトレヒト条約の結果、本土のアカディア、ハドソン湾およびニューファンドランド植民地に対するフランスの領有権が消え、アカディアの後継地としてイル・ロワイヤル(ケープ・ブレトン島)の植民地が設立された〔Control and Order in French Colonial Louisbourg, 1713-1758, Andrew John Bayly Johnston, 2001, MSU Press pp. 8-9〕。
== 探検初期 ==
1523年頃、イタリア人探検家ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノがフランス国王フランソワ1世を説得して、中国に至る西回りルート(北西航路)を見付けるための遠征隊を送ることを認めさせた。その年遅く、ヴェラッツァーノは53人を乗せた小さなキャラベル船ディエップから出港し、大西洋を渡った。翌年早くに現在のカロライナ海岸を探検した後、海岸沿いに北に向かい、ニューヨーク湾のザ・ナローズに停泊した。今日のニューヨークを発見した最初のヨーロッパ人として、元アングレーム伯爵だった国王に因んでその地をヌーベル・アングレームと名付けた。ヴェラッツァーノの航海によって、国王は新しく発見した土地に植民地を造る気になった。ヴェラッツァーノはスペイン領ヌエバ・エスパーニャイングランドのニューファンドランドの間の土地に「フランチェスカ」と「ノバ・ガリア」という名前を付けた。
1534年、ジャック・カルティエがガスペ半島に十字架を建て、この土地が国王フランソワ1世のものであることを宣言した。これがヌーベルフランスの始まりになった。しかし、この地域への入植の試みは当初失敗した。その後はフランスの漁業船隊が大西洋岸からセントローレンス川への航海を続け、先住民との同盟を作っていった。これは一旦フランスが土地を占有するようになると重要なことになった。フランスの商人はヨーロッパで希少になっていた貴重な毛皮動物、特にビーバーがセントローレンス川地域では豊富に獲れることに気付いた。最後はフランス国王がそこを植民地化し、アメリカにおける影響力を拡大する決断をした。
北アメリカでフランスが開拓地を造ろうとした別の試みは、1564年に現在のフロリダ州ジャクソンビルに設立したカロリーヌ砦だった。ここはユグノーにとっての天国を目指し、ルネ・グーレーヌ・ド・ロードニエールとジャン・リボーが指導して建設した。しかしセントオーガスティンに開拓地を建設していたスペインのペドロ・メネンデス・デ・アビレスが率いる部隊によって1565年9月20日に破壊された。
当時のアカディアとカナダには遊牧型アルゴンキン語族と定着型イロコイ族の先住民が住んでいた。これらの土地は未開発で貴重な天然資源が溢れており、ヨーロッパの全ての国にとって魅力的なものだった。1580年代までにフランスの交易会社が設立され、毛皮を持ち帰るための傭船が手配された。このころの先住民と彼等を訪問したヨーロッパ人との間に行われたことの大半は歴史史料がないために不明のままである。
恒久的開拓地を造ろうとした初期の試みは失敗した。1598年、アカディア海岸に近いセーブル島に交易基地が建設されたが、成功しなかった。1600年、現在のケベック州タドゥサックにも交易基地を建設したが、その冬を乗り切ったのは5人に過ぎなかった。1604年、現在のメイン州との国境、ベイ・フランソワ(ファンディ湾)にあるセントクロイ島に開拓地が設立され、1605年にはポートロワイヤルに移された。1607年に一旦放棄され1610年に再度設立され、1613年には破壊され、その後開拓者達は別の場所に移動し、アカディアと集合的に呼ばれることになる開拓地を創設した。そこの開拓者はアカディア人と呼ばれた。
1608年、フランス国王アンリ4世に支援された、ド・モン卿ピエール・ドゥグアとサミュエル・ド・シャンプランが28人の隊員と共にケベックの町を建設し、カナダ植民地では2番目のフランス恒久開拓地となった〔Grenon, Jean-Yves. Pierre Dugua De Mons: Founder of Acadie (1604-5), Co-Founder of Quebec (1608). Translated by Phil Roberts. Annapolis Royal, NS: Peninsular Press, 2000.〕〔Liebel, Jean. Pierre Dugua, sieur de Mons, fondateur de Québec. Paris: Le Croît vif, 1999.〕〔Binot, Guy. Pierre Dugua de Mons: gentilhomme royannais, premier colonisateur du Canada, lieutenant général de la Nouvelle-France de 1603 à 1612. : Bonne anse, 2004.〕。植民事業は緩りであり、困難を伴った。多くの開拓者は厳しい気候や病気のために早期に死んだ。1630年、この開拓地に住んでいた開拓者は103人に過ぎなかったが、1640年には355人まで増えていた。
シャンプランは直ぐにイロコイ族と交戦状態にあった地域のアルゴンキン語族やモンタネー族と同盟を結んだ。1609年、シャンプランは2人のフランス人同僚とアルゴンキン語族、モンタネー族およびヒューロン族の同盟インディアンと共にセントローレンス川渓谷から南のシャンプレーン湖まで遠征し、そこでイロコイ族との戦闘に参加し、火縄銃の最初の銃撃でイロコイ族の酋長2人を倒した。このイロコイ族との戦闘に参加したことで、シャンプランのヒューロン族やアルゴンキン語族との同盟を確固たるものにし、その繋がりはヌーベルフランスで毛皮交易を続けていくために重要な役割を果たした。しかしこの世紀のかなりの期間、イロコイ族とフランス人は攻撃と報復を繰り返すことになった〔Douglas Hunter, ''God's Mercies: Rivalry, Betrayal and the Dream of Discovery'', Random House of Canada Limited, 2000, pp. 240-242〕。シャンプランはまた若いフランス人を先住民と共に住まわせて、先住民の言語と慣習を学ばせ、北アメリカでフランス人が適応できるように仕向けた。これらの者達(例えばエティエンヌ・ブリューレ)は森の番人(coureurs des bois)と呼ばれ、そこより南や西、五大湖地方やそこに住むヒューロン族の中にフランスの影響力を拡げた。
フランスの植民地が存在し始めてからの数十年間、フランス人の数は数百人に留まっていたのに対し、南のイングランド植民地は人口が増え富も蓄積していた。ルイ13世の助言者リシュリュー枢機卿はヌーベルフランスをイングランド植民地と同じくらい重要なものにしようと願った。1627年、リシュリューはヌーベルフランスに投資するためのワンハンドレッド・アソシエイツ会社を設立し、開拓地に新しい開拓者数百人を送り込み、カナダを重要な商業と農業の植民地に変えることを約束した。シャンプランがヌーベルフランス総督に指名された。リシュリューは続いてローマ・カトリック教徒以外の者がそこに住むことを禁じた。プロテスタントはヌーベルフランスでその信仰を捨て、自立することを求められた。しかし多くの者はイングランド植民地に移動する道を選んだ。ローマ・カトリック教会およびレコレットやイエズス会のような宣教師団が領土内で確たる基盤を築いた。リシュリューはまた農業の半封建制であるセグニューリアル制度を取り入れた。これは19世紀までセントローレンス川流域の特徴として残った。
しかし、これと同じ時に、南のイングランド植民地からセントローレンス川流域への襲撃が始まり、1629年にはケベックそのものが占領されて1632年までイングランド支配が続いた。この年シャンプランはカナダに戻り、ラヴィオレット卿にトロワリヴィエールで別の交易基地を建設するよう求めた。この基地は1634年に建設された。シャンプランは1635年に死んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヌーベルフランス」の詳細全文を読む




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