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ビリーケン・キッド : ミニ英和和英辞書
ビリーケン・キッド[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ビリーケン・キッド : ウィキペディア日本語版
ビリーケン・キッド[ちょうおん]

ビリーケン・キッド1973年11月27日 - )は、日本覆面レスラー。身長170cm、体重83kg。大阪プロレスに所属していた。あだ名は「ビリー」。モチーフは通天閣に祭られている幸運の神ビリケン
ビリーケンキッドはリングネームで、その正体、本名は非公開であるが、ビリーケン・キッドのマスクを被る前の姿は、ルチャリブレ日本やプロレスリング華☆激に所属していた「飛影(とびかげ)」だとする説がある。
== 経歴 ==
3人兄弟の末っ子、幼少の頃から兄が初代タイガーマスクのデビュー戦を生観戦したことでプロレスファンになりプロレスラーになることを志すが、体が小さかったためにメキシコに渡ることを決意する。しかし親には「プロレスラーになりたい」とは言い出せずにいたため「語学留学をする」という理由で1995年メキシコ・クエルナバカに単身語学留学。1996年に語学学校に通いながらクエルナバカのルチャドール「ブラック・パワー」に入門。基礎を学んだ後に地元クエルナバカでデビュー。しばらくはクエルナバカで活動を続けるが同じ日本人ルチャドールの磁雷矢ゴクウにスカウトされメキシコのルチャリブレ団体AAA(トリプレア)の所属となり「ロス・カミカゼス」を結成。地方巡業の安いギャラに耐えつつトレーニングに励む。その後ビッグマッチに抜擢される。
2000年にメキシコで修行した日本人ルチャドール達でユニット“ルチャリブレ日本”が結成され参加。これを期に完全帰国し、華☆激を主な舞台として活躍する。
ビリーケン・キッドとしての経歴
2002年1月、大阪プロレスに登場。正規軍に所属しルードユニットFLUxx(フラックス)と抗争を繰り広げる。
2003年5月にツバサと組んでタッグフェスティバルに優勝。大阪タッグチャンピオンの座に挑むも王者村浜武洋獣神サンダー・ライガー組に敗れた。しかし12月、タイガースマスクとのタッグで見事に勝利し新王者となった。しばらく後に発表になったタッグチーム名は「ザ☆虎ビリー」。この後、挑戦者チームとの体格差やタイガースマスクの故障に悩まされるが苦戦ながら4度の防衛に成功している。
2004年8月、トリプルスレットルールで行われた大阪シングル王者選手権で勝利し二冠を達成する。だが10月“ビッグボス”MA-G-MAに敗れシングルの座を失い、12月にはタッグ王者のベルトも失う。
2005年2月、ペロ(現:高井憲吾)と組み再びタッグ王座に返り咲く。4月末でペロが大阪プロレスを離脱したためベルトは返上している。
2006年1月、試合中に味方であるタイガースマスクを椅子で殴打し正規軍を離脱、新ルードユニットを結成しリーダーとなる。1か月後に発表したルードユニット名は”ベンダバル”(スペイン語ジブラルタル海峡に吹き付ける偏西風の意味)。それにあわせて従来の黄色いコスチュームから黒を基調としたコスチュームに変更した。ただし、観客の反感を買ったり恐怖心を煽るような悪役一辺倒ではなく「チョイ悪(わる)」キャラクターになっている。
2月、ブラックバファローと組んで選手権試合を制し新タッグチャンピオンとなる。しかし、7月、ブラックバファローが負傷し長期欠場を余儀なくされたため、タッグ王座を返上。8月に新たに秀吉と組んでタッグチャンピオン王座を奪取する。8月、スペル・デルフィン戦に勝利し、第12代大阪プロレス王座を獲得し、二冠を得る。
12月、タッグ王者のベルトを失い、2007年2月12日大阪ハリケーンにて、タイガースマスクに破れ、大阪プロレス選手権王座からも陥落する。
2007年3月24日ベンダバル同門対決に破れ、秀吉政宗によりベンダバルを追放される。その後しばらくは、共に追放されたアジアン・クーガーと組んで試合をしていたが、ヒールターンしたスーパー・ドルフィンと入れ替わるように正規軍入りする。ちなみに正規軍に加入後も「チョイ悪」スタイルはそのままである。
9月、試合中に右前腕を骨折し長期欠場。
2008年2月11日、大阪ハリケーン2008、対丸藤正道戦にて復帰。しかし怪我が完全に治りきっていなかったことを打ち明け再度欠場。7月12日、SATURDAY NIGHT STORYにて復帰し、12月7日の2008天王山決勝でブラックバファローを破り、悲願の初制覇を果たすが、この決勝戦で右肩鎖関節脱臼という怪我に見舞われ再度欠場となる。
2009年1月31日、SATURDAY NIGHT STORYにて復帰。2月15日、大阪ハリケーン2009にて大阪プロレス選手権試合対秀吉戦に勝利し王座奪還。第15代大阪プロレス王者となる。7月25日、SATURDAY NIGHT STORY大阪プロレス選手権試合対ディック東郷戦に敗れ、王座陥落。ベルトを流出させてしまう。12月6日、天王山2009決勝でマグニチュード岸和田をベルディゴで破り、天王山2連覇。
2010年2月11日、「大阪ハリケーン2010」でディック東郷の持つ大阪プロレス選手権に挑戦、ファイヤーバード・スプラッシュで勝利し、第17代大阪プロレス王者となる。試合は場外カウント無し、反則裁定一切無しのノーDQマッチであり、且つ負ければ東郷の股をくぐり大阪プロレスを離脱しなければならないという厳しい条件をのんでのベルト挑戦であった。
その後、6月18日に行われたDRAGON GATEとの全面対抗戦でCIMAとのシングルマッチに敗北し、大阪プロレス王座を再度流出。
2011年1月23日、豊中市ローズ文化ホールにて、初の自主興行を開催し満員大盛況に終わる。メインイベントでかつての大阪プロレスでのライバル 怪人・ハブ男(沖縄プロレス)と団体の垣根を越えた一騎打ちを実現させた。
その後、「JOKER」入りを宣言しヒールターン。コスチュームも目がメッシュで覆われた黒マスクに、黒タイツの「黒ビリー」仕様に変更となった。
5月、空牙とのタッグで「大阪タッグフェスティバル2011」に出場。Aブロック1位で優勝決定戦に進む。6月26日の松下IMPホール大会で、Bブロック1位のタイガース&バッファロー組と戦い、敗れて準優勝となる。試合後、タイガースに「悪くなったら強くなれたんか?お前の問題はこことちゃうんか?」と精神力の弱さを指摘される。
その後、この試合の敗戦の責任を背負ったビリーはJOKERのメンバーから試合中に袋叩きの制裁を受けるが、メキシコ時代からの盟友筑前りょう太九州プロレス)が現れビリーを救出。そのまま九州へビリーを連れ帰り、ビリーのモチベーションUPと新必殺技の開発に手を貸した。
8月14日の「大阪ハリケーン」で完全復活したビリーは、クーガーからシングル王座を奪還していたタイガースマスクに挑戦。新必殺技「エスペランサ(スペイン語で希望の意)」を駆使してタイガースを破り、大阪プロレスチャンピオンに返り咲いた。
2012年2月のIMPホール大会にて原田大輔と対戦し王座陥落。3月に念願の第2回自主興行がエムアリで開催し、満員の観衆に見守られながら筑前りょう太との一騎打ちを展開。筑前のチョップ連打で胸板を真っ赤に腫らしながら互角の闘いを見せたものの、最後は筑前の「とぶばい」2連発にマットに沈んだ。
7月には豊中市の中学校における「大阪プロレス&教育講演会」なる催しに招かれ、激しい試合を行った後で、息も乱さず小中学生や保護者を前に、自身の体験を踏まえ、夢を持つ事の大切さや家族、友人への感謝の大切さなどを講師として講演した。
2014年大阪プロレスを退団。その後は大阪を中心にフリーとして活動している。
道頓堀プロレスでは仲間としてThe Bodyguardゼウス菅沼修三原一晃織部克巳とともに行動している。また老人ホールなどでボランティアで慰問活動を行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ビリーケン・キッド」の詳細全文を読む




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