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バニア・キング : ウィキペディア日本語版
バニア・キング

バニア・キングVania King, 1989年2月3日 - )は、アメリカカリフォルニア州モントレーパーク出身の女子プロテニス選手。中国系の選手で、漢字名は 金 久慈 という。2010年ウィンブルドン全米オープンで、ヤロスラワ・シュウェドワカザフスタン)と組んだダブルスで優勝した。これまでにWTAツアーでシングルス1勝、ダブルス14勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス50位、ダブルス3位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。
== 来歴 ==
父親の手ほどきにより、4歳からテニスを始める。2005年全米オープンで、彼女はジュニア女子ダブルス部門でアレクサ・グラッチ(同じアメリカの選手)と組んで準優勝し、一般の部でも女子シングルスの予選3試合を勝ち抜いて、ナタリー・ドシーフランス)との2回戦まで進出した。2006年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップのアメリカ代表選手に選ばれる。2006年全米オープンでは、アンドレ・アガシマルコス・バグダティスキプロス)による男子シングルス2回戦の試合開始に先立ち、バニア・キングがアメリカの愛国歌「アメリカ・ザ・ビューティフル」の歌い手に選ばれた。彼女自身は、女子シングルス2回戦でジュスティーヌ・エナン・アーデンに 1-6, 2-6 のストレートで敗れた。1か月後の2006年10月、キングはエレナ・コスタニッチクロアチア)とペアを組み、日本ジャパン・オープン女子ダブルスでツアー初優勝を飾った。翌週のタイバンコク大会では単複2冠を獲得し、シングルス決勝で地元タイ人選手のタマリネ・タナスガーンを 2-6, 6-4, 6-4 の逆転で破り、コスタニッチとのダブルスで2週連続優勝を決めた。
シングルスはこの1勝どまりであるが、ダブルスで2007年2008年に2勝ずつを獲得した。2008年東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントではナディア・ペトロワロシア)と組み、決勝でリサ・レイモンド&サマンサ・ストーサーオーストラリア)組を 6-1, 6-4 で破った優勝がある。
2009年全仏オープンで、バニア・キングはブラジルマルセロ・メロと混合ダブルスのペアを組み、決勝戦まで勝ち進んだ。パートナーのメロは、ダブルスのスペシャリストとして有名な選手である。決勝戦で2人は第1シードペアのボブ・ブライアン&リーゼル・フーバー組と対戦し、7-5, 6-7 で1セット・オールになった。全仏オープンのダブルスでは、混合のみ10ポイント・タイブレーク決戦方式(通称:スーパータイブレーク方式)で勝敗を決定する。この方式では、1セット・オールになった時は10点制のタイブレークを行い、先に10ポイント取った方が勝者になる。キングとメロはタイブレークを 7-10 で落とし、全仏混合ダブルス準優勝者になった。
2010年はヤロスラワ・シュウェドワと組んだダブルスで、ウィンブルドン全米オープンで優勝した。2011年全米オープンではシュウェドワとのダブルスで2年連続の決勝に進出したが、リーゼル・フーバー&リサ・レイモンド組に 6–4, 6–7(5), 6–7(3) で敗れ連覇を逃した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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