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スヴャトスラフ・リヒテル : ミニ英和和英辞書
スヴャトスラフ・リヒテル[らふ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough

スヴャトスラフ・リヒテル : ウィキペディア日本語版
スヴャトスラフ・リヒテル[らふ]

スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル(、、ラテン文字転写例: Sviatoslav Teofilovich Richter、1915年3月20日 - 1997年8月1日)は、ソビエト連邦ピアニストである。ドイツ人を父にウクライナで生まれ、主にロシアで活躍した(ただし在留ドイツ人として扱われた)。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された。
== 生涯 ==
1915年3月20日、ウクライナジトームィルでドイツ人ピアニストの父と素封家の母親のもとに生まれた。幼いころに一家はオデッサに移住した。父親は同地の音楽学校で教師を務め、息子にも音楽の手ほどきをしたが、音楽家にしようという気はなかった。父親はその後別れて行動し、後にオデッサで処刑され、母親は別の男性と再婚した。
リヒテルは独学でピアノを始め、1931年に15歳にしてオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用され、多くのオペラ曲の初見を経験した〔岡俊雄「詩的幻想とピアニズムの調和、不朽のソフィア・ライヴ」、アルバム『ソフィア・リサイタル』(PHILIPS UCCP-9507) ライナーノート〕。1934年、19歳の時にショパンのみのプログラムによる小規模な初リサイタルを開き、成功を収めた〔『ピアノとピアニスト2003』音楽之友社、2003年 ISBN 978-4276961357〕。
1937年、22歳でモスクワ音楽院に入学し、ゲンリフ・ネイガウスに師事した。彼はその時点ですでに完成されたピアニストだったといわれ、ネイガウスは「何も教えることはなかった」という言葉を残しているが、リヒテル自身はネイガウスから多くのことを学んだと言っている。ネイガウスはリヒテルを天才であるといい、時に荒削りの演奏をあえて直そうとはしなかった。同門のエミール・ギレリスは1歳年下だが、モスクワ音楽院では2年先輩にあたる。
リヒテルはネイガウスの紹介によりセルゲイ・プロコフィエフと親交を持つようになり、1943年1月18日にはモスクワでプロコフィエフのピアノソナタ第7番を初演し、成功を収めた。翌1944年にはプロコフィエフの3曲の戦争ソナタによるリサイタルを行った〔。以後、ソ連国内で活発な演奏活動を行うようになり、1945年には30歳で全ソビエト音楽コンクールピアノ部門で第1位を受賞した。プロコフィエフが政府から反革命的と批判されたときも常にプロコフィエフと活動を行った。
1950年に初めて東欧で公演も行うようになり、一部の録音や評価は西側諸国でも認識されていた。しかし、冷戦で対立していた西側諸国への演奏旅行はなかなか当局から許可が下りなかった。そのため、西側諸国ではその評判が伝わるのみで実像を知ることができず、「幻のピアニスト」とも称されるようになった〔。ソ連の演奏家としては最も早い時期から国際的に活躍していた一人であるギレリスが、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待ってください」と制したことも、この幻のピアニストへの期待をかき立てた〔グレゴール・ヴィルメス「力強い詩人」(橋本ゆかり訳)、アルバム『モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番/ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ほか」(UCCG-3086) ライナーノート〕。
1958年にはこの年の2月25日にブルガリアソフィアで行ったリサイタルの録音が西側でもレコードとして発売された。ムソルグスキー展覧会の絵などを含むこの録音は不朽の名演奏と称えられ、リヒテルの当代一のピアニストとしての真価を知らしめた〔。同年に第1回チャイコフスキー国際コンクールが開催され、この大会を制したヴァン・クライバーンが滞在中に聴いたリヒテルの演奏について「生涯で聞いたなかでもっともパワフルな演奏であった」と帰国後に語ったことで、このピアニストの評判はさらに高まることとなった〔Uwe Kraemer: VITALITÄT UND POESIE -Der Pianist Svjatoslav Richter アルバム『MOUSSORGSKY・PICTURES AT AN EXGIBITION』(PHILIPS 420 774-2) ライナーノート〕。
翌1959年にはドイツ・グラモフォンのスタッフがワルシャワに乗り込んで録音が行われ、数枚のレコードが発売された。その中でも特にスタニスワフ・ヴィスウォツキ指揮のワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団と共演したラフマニノフピアノ協奏曲第2番の録音はこの作品の決定的名演と称えられ、その評価は現在に至るまで揺るいでいない〔『レコード芸術』音楽之友社、2007年5月号〕。
1960年5月にようやく西側での演奏を許可され、ヘルシンキでのコンサートに「伴奏者」として派遣された。同年中にはアメリカへもツアーしてセンセーショナルな成功を収めた。この時に録音されたブラームスピアノ協奏曲第2番(共演はエーリヒ・ラインスドルフ指揮シカゴ交響楽団)やベートーヴェンピアノソナタ第23番のレコードも評判となり、いよいよ西側でも本格的にその実像を知られるようになった。
その後は名実共に20世紀を代表するヴィルトゥオーソとして世界を舞台に精力的に活動した。同時代にアメリカを拠点に活動したウラディミール・ホロヴィッツと並び称されることもあった〔。
日本へは飛行機嫌いのためなかなか訪れることがなかったが、1970年の日本万国博覧会の際に初の訪日が実現した。それ以降はたびたび来日してリサイタルを開き、日本の音楽ファンにもなじみ深い存在となった〔。
オレグ・カガンをはじめとする他の演奏家との共演も活発に行い、西側を含む各地で音楽祭を主催した。特に1981年から毎年冬にプーシキン美術館で開催した音楽祭「12月の夕べ」は絵画の展示とテーマを共有するユニークなスタイルのものだった。晩年に至っても、技巧の衰えを豊かなタッチで補いつつ、意欲的な活動を続けた。
特に彼の理想としていたのは、ピアノをトラックに積んで旅行し、前触れなく教会のある街でピアノを無料で演奏し、また旅に出るという生活であり、それに近い形の多くのコンサートを行った。
1997年8月1日、モスクワで82年の生涯を閉じた。生涯の伴侶であったニーナ・ドルリアも同年に亡くなっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スヴャトスラフ・リヒテル」の詳細全文を読む




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