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モデスト・ムソルグスキー : ミニ英和和英辞書
モデスト・ムソルグスキー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

モデスト・ムソルグスキー : ウィキペディア日本語版
モデスト・ムソルグスキー[ちょうおん]

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー( ,ラテン文字転写:Modest Petrovich Mussorgsky, 1839年3月21日 - 1881年3月28日)は、ロシア作曲家で、「ロシア五人組」の一人。「五人組」の中では、そのプロパガンダ民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いた。国民楽派の作曲家に分類され、歌劇ボリス・ゴドゥノフ 』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲展覧会の絵』などが代表作とされる。
== 生涯 ==
プスコフ州で、リューリクの血を引く地主階級に生まれる。ムソルグスキー家は、リューリクの18代目の末裔ロマン・ヴァシリエヴィチ・モナスティレフの子孫であり、家名はモナスティレフの渾名「ムソルガ」に由来する。
6歳から母の手ほどきでピアノを始める(そこから、やがてフランツ・リストの小品を弾くまでになったといわれる〔‘The Classic Collection’第99号〕)。10歳のときサンクトペテルブルクのエリート養成機関ペトロパヴロフスク学校に入学。
ムソルグスキーは武官になることを夢見ており、13歳で士官候補生になるが、音楽は大切な存在であり続けた。1852年には父が出費して、ピアノ曲『騎手のポルカ(''Porte-enseigne Polka'')』が出版された。
2年間のうちに、ロシアの文化人との出会いを果たし、ダルゴムイシスキースターソフバラキレフキュイとの出会いは重要であった。バラキレフの指導のもとに、歌曲とピアノ曲などの習作を手がけるが、1858年に軍務を退役する。リャードフ少年に出会い、モスクワ詣でにも出向き、同胞愛や郷土愛に目覚める。
ムソルグスキーは、バラキレフに師事して、ベートーヴェンなどのドイツ音楽を学んでおり、バラキレフの監督下に作曲された『4手のためのピアノ・ソナタ』は、ムソルグスキー唯一のソナタ形式を含む作品である。作曲を続け、未完成のまま放棄した歌劇『アテネのオイディプス』も、またピアノ曲『古風な間奏曲(''Intermezzo in modo classico'')』(1867年に改訂し、管弦楽化)も、やはり民族主義的でない。ムソルグスキー家は荘園の半分を収奪され、ムソルグスキー自身は、非常に多くの時間をカレヴォに過ごして、一家の突然の零落を何とか食い止めようとしたものの失敗した。
この頃ムソルグスキーはバラキレフの影響力から自由になり、ほとんど独学するようになった。1863年から1866年まで、歌劇『サランボー (''Salammbô'') 』に取り組む。ペテルブルクに戻り、下級官吏として生計を立てる。ペテルブルクで、近代芸術や近代科学について読書し、議論を戦わせた。そのような影響のもとにムソルグスキーは、段々と「リアリズム」という理念を抱くようになり、社会の低層に関心を寄せた。再現やシンメトリーのある楽式を拒否し、「現実生活」の繰り返しのない、予測のつかない流れに十分に忠実であろうとした。
「現実生活」の衝撃は、1865年に母親が没すると、ムソルグスキーにはとりわけ苦痛に思われた。この頃から深刻なアルコール依存症の兆しが見え始める。しかしながら26歳のムソルグスキーは、写実的な歌曲の作曲を始め、1866年に作曲された歌曲『ゴパーク(''Gopak'')』と『愛しいサーヴィシナ(''Darling Savishna'')』は翌1867年に、初めて自力で出版された作品となった。1867年は、『禿山の一夜』の初稿が完成された年でもあったが、バラキレフはこれを批判し、指揮することを拒んだため、存命中には上演されなかった。
文官としての職務は安定していなかった。1867年に余剰人員と宣告され、出勤しても無報酬であった。とはいえ芸術生活においては、決定的な展開が生じようとしていた。バラキレフを中心とした作曲家集団についてスターソフが「五人組」と名付けたのは1867年のことであったが、それまでにムソルグスキーはダルゴムイシスキーに接近した。
1866年よりプーシキンの原作歌劇『石の客』を作曲中であったダルゴムイシスキーは、テクストは「その内的な真実が捻じ曲げられないように、あるがままに」曲付けされるべきであると力説して、アリアレチタティーヴォをやめデクラマシオンをよしとした。
『石の客』に影響されて、1868年に作曲された、ゴーゴリ原作の『結婚』の最初の11場では、戯曲の日常的な対話の抑揚を、旋律線によって自然に再現することが優先されている。『結婚』は、ムソルグスキーの自然主義的な曲付けにおいて極端な位置を占めている。この作品は第1幕の終結まで作曲されながらも、管弦楽法を施されぬままに放棄されたが、その典型的なムソルグスキー流デクラマシオンは、その後のあらゆる声楽曲において聞き取ることが可能である。自然主義的な声楽書法が、数ある表現原理の中で、しだいに唯一のものとなった。
『結婚』を放棄した後、ムソルグスキーはボリス・ゴドゥノフの物語でオペラを作曲するよう励まされる。このためプーシキンの戯曲や歴史物語を集め、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ 』を書き上げた。1871年に提出されるが、歌劇場から上演拒否にあった。初稿では、明らかにプリマドンナ役がなかったからだった。ムソルグスキーは改訂に取り掛かり、より大掛かりな第2稿(これが原典版である。)を完成させ1872年(おそらく5月)に受理され、1873年にはマリインスキー劇場で抜粋上演が行われた。
1874年2月の『ボリス・ゴドゥノフ』の初演まで、ムソルグスキーは、不運に終わった「五人組」の合作オペラ『ムラーダ』にかかわって、このために『禿山の一夜』合唱版を作成し、歌劇『ホヴァーンシチナ』にも着手した。『ボリス・ゴドゥノフ』は批評家筋の受けが悪く、上演回数は十回程度でしかなかったが、聴衆には好評で、これによってムソルグスキーの活動は頂点をきわめた。
この頂点からの転落のきざしが次第に明らかとなり、ムソルグスキーは友人のもとから押し流され、アルコール依存症が関係する狂気も見受けられる。さらに友人ヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)が死に(1873年のことである)、肉親やルームメートのゴレニシェフ=クトゥーゾフ伯爵(『陽の光もなく』『死の歌と踊り』の作詞家)も結婚して去って行った。1874年以降は、『陽の光もなく』、『モスクワ河の夜明け』(『ホヴァーンシチナ』前奏曲)、『展覧会の絵』が作曲されている。歌劇『ソロチンスクの定期市』にも着手し、さらに『禿山の一夜』の、別の合唱版も作成した。
やがて著名人のサークルと交際を始めたが、酒量が抑えられず、身近な人の相次ぐ死は心痛をもたらしたが、ムソルグスキーの最も力強い作品『死の歌と踊り』が作曲された。文官としての仕事は、たびたびの「病気」や欠席のためにいっそう不安定になり、内務省に転職することができたことは幸運であった。しかも転職先では、ムソルグスキーの音楽熱が寛大に扱われたのである。1879年には、伴奏者として3ヶ月間に12都市で演奏活動を行うことさえ許されていた。ただし、サンクトペテルブルクに戻ると再び以前の荒んだ生活に逆戻りした。
1880年公務員の地位を追われる。ムソルグスキーの窮乏を知って友人たちは、『ホヴァーンシチナ』『ソロチンスクの定期市』を完成できるように寄付を集めようとした。『ホヴァーンシチナ』のピアノ・スコアは、2曲を除いて完成しており、仕上げまでもう少しというところまで達したが完成には至らなかった。
1881年初頭に4度の心臓発作に見舞われた。ムソルグスキーが入院させられ状況は絶望的であり、3月28日に42歳で死去。イリヤ・レーピンによって有名な肖像画が描かれたが、これは最期を伝えるものとなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「モデスト・ムソルグスキー」の詳細全文を読む




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