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ジャン・ランベール・タリアン : ミニ英和和英辞書
ジャン・ランベール・タリアン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジャン・ランベール・タリアン ( リダイレクト:ジャン=ランベール・タリアン ) : ウィキペディア日本語版
ジャン=ランベール・タリアン[ちょうおん]

ジャン=ランベール・タリアンJean-Lambert Tallien, 1762年1月23日 - 1820年11月16日)は、フランスの革命指導者、政治家恋人を救うためにテルミドール9日のクーデターで活躍したことで知られている。
== 生涯 ==
1762年、旅館の息子としてパリに生まれ、教育を受けて弁護士書記となった。 熱心な革命支持者で、初期からジャコバン派の一員となり、1791年に自身でも会報「市民の友」を発刊して有名になった。1792年8月10日、テュイルリー宮殿襲撃に参加し、パリ・コミューンの書記に就任。九月虐殺に関与するも、国民公会議員に選出された。 国民公会では山岳派に属して国王処刑に賛成。ジロンド派への激しい攻撃を行なう。
1793年9月にボルドーに派遣され、反革命派に対する粛清を行なった。この時、元侯爵夫人テレーズ・カバリュスと出会い愛人関係になる。 彼女に影響されて弾圧の手を緩め、ロベスピエールから睨まれる。テレーズは投獄され、彼女と獄中から手紙のやりとりをしていたタリアンは、保身と彼女の命を救うために、ポール・バラスたちに誘われていたテルミドールのクーデタへの参加を決意する。打ち合わせ通りに議会の壇上に上がると、短刀をふりかざしながら「暴君を打倒せよ」とロベスピエールを告発する演説を敢行した。その先頭に立っての活躍で、ロベスピエール失脚に決定的な役割を果たした。
クーデターを終えると、早速テレーズと1794年12月に結婚して、周囲の祝福をうけた。金ピカ青年隊を扇動してジャコバン・クラブを襲撃させ、これを閉鎖。 革命裁判所の廃止、地方に派遣され、反乱を起こそうとした王党派の大量処刑などを行う。しかし彼は穏健派からも急進派からも人気がなくなり、1年たらずで権力を喪失していった。総裁政府期は五百人会議員。
事態を打開するために、ナポレオン・ボナパルトエジプト遠征に調査団の経済学担当で参加し、帰還の際にイギリス軍に捕らわれ、ロンドンに連行される。テレーズは、結婚してからも自由奔放に振る舞い、タリアンに愛想を尽かすとバラスの愛人となっていた。1802年にタリアンがようやく帰国すると離婚した。その後は1806年になってようやく公職にありついたこともあったが、熱病で片目を失明して、失意の内にパリで余生を送る。1820年、貧窮のうちに寂しく世を去った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジャン=ランベール・タリアン」の詳細全文を読む




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