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マクシミリアン・ロベスピエール : ミニ英和和英辞書
マクシミリアン・ロベスピエール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マクシミリアン・ロベスピエール : ウィキペディア日本語版
マクシミリアン・ロベスピエール[ちょうおん]

マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(, 1758年5月6日 - 1794年7月28日)は、フランス革命期の政治家で、史上初のテロリスト恐怖政治家)・代表的な革命指導者。
左派の論客として頭角をあらわし、共和主義が勢力を増した8月10日事件から権勢を強め、1793年7月27日公安委員会に入ってからの約一年間はフランスの事実上の首班として活動した。当初は民衆と連帯した革命を構想していたが、9月25日国民公会から独裁権を認められてからは委員会独裁を主導、テロリズム(恐怖政治)に転じて粛清を断行したため、独裁者というイメージが定着している。一方、極左の政治家や活動家からは、正義に殉じた政治家として崇拝される傾向にある。
== 生涯 ==

フランス北部・アルトワ州アラス(現在のパ=ド=カレー県)生まれ。家は1720年より続く法服貴族であり、父フランソワはアルトワの議会議員で弁護士だったがマクシミリアンは幼くして母を亡くし、父も身を持ち崩したため、わずか6歳で家長となる。貧しい苦学生だが秀才の誉れ高く、学生代表として雨の中、膝をついてルイ16世の行幸を出迎えたという〔A New Dictionary of the French Revolution http://books.google.co.jp/books?id=2KaHAwAAQBAJ&pg=PT375&dq=robespierre+latin+speech+in+rain&hl=ja&sa=X&ei=WlXfU_GNFo6F8gXJhYH4Ag&ved=0CCMQ6AEwAQ#v=onepage&q=robespierre%20latin%20speech%20in%20rain&f=false〕。後にロベスピエールは、国民公会において、そのルイ16世を激しく非難し、即時処刑すべきと主張している。
アラス大学卒業後、判事を経て、アルトワ州高等法院で弁護士となり、学会にも選出された。このころ発表した『刑事事件の加害者の一族もその罪を共有すべきか』という論文は高く評価された。
1789年、30歳にして、三部会のアルトワ州第三身分代表として政治の世界に身を投じる。ジャコバン派内の山岳派に属し、ジロンド派内閣が推進した対外戦争に反対した。後のイメージからは想像しにくいが、このころは死刑廃止法案を提出したり、犯罪者親族への刑罰を禁止する法案に関わる等、当時としては先進的な法案に関わっていた。
サン・キュロットの支持を得て、1793年6月2日、国民公会からジロンド派を追放し権力を掌握すると、公安委員会、保安委員会、革命裁判所などの機関を通して恐怖政治(Terreur:テルール 、テロの語源)を断行し反対派をギロチン台に送った(彼自身"Terreur"を必要なものだと信じ、「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」と主張した)。同年7月13日の盟友マラーの死に際しては、マラーを神格化することでジロンド派の支持を奪い、さらにジャコバン派内部でのロベスピエールのリーダーシップを不動にした。
1794年2月、ヴァントーズ(風月)法を可決。同年3月に最左派エベール一派、4月に右派ダントン一派を粛清して、自己の理想とする独立小生産者による共和制樹立を目指した。この頃から、自らの主体的な神(正確には「至高の存在」)の定義を議会で通すなど横暴が目立つようになる。そして、6月8日に自らの主体的な神のための最高存在の祭典(''La fête de l'Être suprême'')を挙行する。
対外戦争(フランス革命戦争)が好転し国内危機が一段落すると、1794年7月27日(革命暦II年テルミドール9日)、反ロベスピエール派によって逮捕され(テルミドールのクーデター)、1794年7月28日、サン=ジュストジョルジュ・クートンらとともに処刑された。
遺体は同志とともにエランシ墓地(fr)に埋葬されたが、後の道路拡張で墓地が閉鎖に伴って、遺骨はカタコンブ・ド・パリに移送されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マクシミリアン・ロベスピエール」の詳細全文を読む




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