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アラス : よみがなを同じくする語

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アラス : ミニ英和和英辞書
アラス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


アラス : ウィキペディア日本語版
アラス

アラスArras)は、フランス北部、ノール=パ・ド・カレー地域圏の都市。パ=ド=カレー県の県庁所在地。かつてのアルトワ地方に属す。LGV北線が停車する。
== 歴史 ==
アラスはボーディモンの丘の上に、ケルト人であるアトレバス族Atrebates)によって建てられた。彼らは定住地を、『聖なる木立群』を意味する言葉ネメトン(Nemeton)にちなみ、ネメタクム(Nemetacum)かネメトセンナ(Nemetocenna)と名付けた。おそらく現在のアラスの場所にあったとされている。古代ローマ人は定住地を後にアトレバトゥム(Atrebatum)と改名し、重要な駐屯地のある町へしていった〔"Arras". ''Northern France and the Paris Region'', pp. 120-122. Michelin Travel Publications, 2006. ISBN 2067119281〕〔"Arras." ''Concise Dictionary of World Place-Names''. John Everett-Heath. Oxford University Press 2005.〕。
町の住民たちがキリスト教に改宗したのは4世紀終わりであった。彼らを改宗させた聖ディオゲネスは、410年に町が野蛮な民族の攻撃を受けた際に殺害された。およそ130年後、聖ヴェデスト(Vaast,聖ファースト、聖ヴァーストとも)が町に教会と修道院共同体を創設した。それらはカロリング朝時代に、無限に富を蓄えたベネディクト会派の聖ヴァースト修道院へと発展した。現代のアラスの町は、初めは穀物市場として修道院周囲で成長したのである。9世紀に町も修道院もヴァイキングの襲撃で被害を受け、後にヴァイキングらはノルマンディー西部へ定住した。11世紀には、修道院はその力強さを蘇らせ、カロリング朝、オットー朝、イングランドの各芸術を統合するのに成功した中世絵画発展に、重要な役割を担った〔"Arras." ''Encyclopedia of the Middle Ages''. Ed. André Vauchez〕。
アラスの羊毛産業を通して町は確立された。1180年にフランス王から商業特権を授けられ、国際的な銀行業と貿易業の重要地となった。14世紀より、生地作りと羊毛産業で名声を成し、相当な富を蓄えた。それは優れたタペストリーの生産で特に知られていた。英語でArras、イタリア語でArrazziと言えば、タペストリー全般を意味していた〔 。裕福な生地商人が町が重要な文化中心地となるのを請け負った。詩人ジャン・ボデルやトルバドゥールアダン・ド・ラ・アルなどはアラスに自宅を持っていた。
しかし町の所有権は繰り返し争われ、アルトワ地方の残りと同様抗争を繰り返した。中世の間、アラスの領有権は多種多様な封建領主と封土の間を転々とした。フランドル伯ブルゴーニュ公スペイン・ハプスブルク家、そしてフランス王家である。1435年には、町はアラス会議の地となった。この会議で百年戦争を終結させようと試みて失敗し、その結果ブルゴーニュ派はイギリスとの同盟関係を破棄したのである。
1477年にブルゴーニュ公シャルル大胆公が死ぬと、フランス王ルイ11世がアラスを管理下に置いたが、住民たちはフランス王よりもブルゴーニュ公へ忠義を尽くしたので、追放された。これを促したルイ11世は猛攻をかけアラスを獲得後、町壁を壊させ、住民を追放し、替わってさらに王家に忠実な、フランスの他の場所からやってきた人々と入れ替えた。町のアイデンティティーを完璧に高めたと述べ、ルイは短期間だけ町の名をフランシズ(Franchise)と改名した。1482年、アラスの和議が町で結ばれ、ルイ11世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世間の対立が終わった。10年後、町はマクシミリアン1世へ割譲され、スペイン・ハプスブルク家の治めるネーデルラント17州(のち南ネーデルラント)の一部として遺譲された〔"Arras." ''Merriam-Webster's Geographical Dictionary''. (2007).〕〔 "Arras." Encyclopædia Britannica. 2008.〕。
アラス連合(:en:Union of Atrechtオランダ語でアトレヒト同盟)は1579年1月に、ネーデルラントカトリック代表によって署名された。彼らカトリック派は、スペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世に対し忠義を持ち続けた。同じ月に、ネーデルラントのプロテスタント諸国が中心となり、ユトレヒト同盟が結成された。
第一次世界大戦中、アラスは前線近くにあり、1917年ので知られる長い軍事作戦の舞台となった。これは市の地下にある中世のトンネルの一続きが決めてとなり(ドイツ軍はトンネルの存在を知らなかった)、イギリス軍がアラスを奪取することにつながった。しかし、市は壊滅的な被害を受け、戦後に再建を余儀なくされた。第二次世界大戦では、1940年3月にナチス・ドイツのフランス侵攻を受け、1940年のアラスの戦いではイギリス軍の反撃の舞台となった。アラスはドイツ軍に占領され、アラス・シタデルの中でレジスタンスと疑われた240人の人々が処刑された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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