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テレーズ・カバリュス : ミニ英和和英辞書
テレーズ・カバリュス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

テレーズ・カバリュス : ウィキペディア日本語版
テレーズ・カバリュス[ちょうおん]

テレーズ・カバリュス(, 1773年7月31日 - 1835年1月15日)は、銀行家の娘で、その美貌を武器にフランス総裁政府期には社交界の華であった女性である。
本名は旧姓で、ジャンヌ=マリー=イニャス=テレーズ・カバリュス(、)であるが、「テレザ・カバリュス()」という彼女本人が好んで用いた通称で有名。また結婚後の姓であるフォントネ侯爵夫人またはタリアン夫人とも呼ばれた。
== 生涯 ==
1773年、マドリード近郊で銀行家・カバリュスとスペイン人の母親との間に生まれる。子供の頃から美人だった。16歳の時に金持ちの貴族ド・フォントネ侯爵と進んで結婚。宮廷生活を楽しむと同時に、その頃進歩的な貴族の間で流行していた「自由主義」にかぶれ、ラメット兄弟やラファイエットとも交流を深めた。1789年のフランス革命の勃発と同時に夫は亡命したが、テレーズは革命に興味を持ち、夫に従って亡命することを拒否して離別した。1793年、ボルドーに移り、そこからスペイン国境に向かい、父の援助で亡命しようとした。
ボルドーでは胡散臭い目で見られたので、積極的に革命の祭典自由の女神に扮するなどして愛国者を気取った。そのうち、派遣議員としてやってきたタリアンの目に触れた。タリアンはテレーズに上せ、求められるままにテレーズの友人である反革命容疑者を処刑リストから外した。
間もなく、このことがパリロベスピエールに知られ、タリアンは呼び戻される。その後を追ってテレーズもパリに行ったが、そのまま逮捕され、ラ・フォルス監獄に入れられた。ここで後のナポレオンの妻ジョゼフィーヌと知り合い、親友となった。死と隣り合わせで不安な日を送り、タリアンに早く何とか出所させてもらうように矢のような催促をするが、なかなか釈放されず、痺れを切らしたテレーズは1794年7月25日、タリアンに最後の手紙を送った。
この手紙を受け取ったタリアンは、ポール・バラスに誘われていたクーデターの敢行を決意し、7月27日、タリアンは国民公会に向かった。テルミドールのクーデターは成功し、7月28日、テレーズは監獄から釈放される。人々はテレーズを「テルミドールの聖母」と呼び、これが彼女の一生の称号となった。テレーズとタリアンはすぐに結婚して娘をもうける。
しかし、1年足らずでタリアンの栄光はなくなり、テレーズはバラスの愛人となる。1802年にはタリアンを見切って離婚した。だが、バラスは浪費癖のあるテレーズに困り果て、革命成金のウヴラールの元に厄介払いしたが、それも長続きしなかった。ナポレオンが最高権力を手にすると、ジョゼフィーヌの浮気癖はテレーズが原因と思い込んでいたために、彼女の社交界への出入りを差止めた。そのため1805年、カラマン伯爵と再婚して、残りの30年を夫の領地で、それまでと打って変わって静かに平穏に暮らした。晩年は「私の若い頃は小説みたいだった」と言っていたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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