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ジグムント・ストヨフスキ : ミニ英和和英辞書
ジグムント・ストヨフスキ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジグムント・ストヨフスキ : ウィキペディア日本語版
ジグムント・ストヨフスキ

ジグムント・デニス・アントニ・ヨルダン・デ・ストヨフスキZygmunt Denis Antoni Jordan de Stojowski, 1870年5月4日1946年11月5日)は、ポーランドピアニスト作曲家。20世紀になると渡米し、ニューヨークを拠点に、いわば第二の故郷として活動を続けた。
== 生涯 ==
キェルツェ近郊に生まれ、母マリエから音楽の手ほどきを受けた後、ポーランドの作曲家に師事する。クラクフにおいて、17歳のまだ学生だったうちに、地元のオーケストラと共演してベートーヴェンの《ピアノ協奏曲 第3番》を弾き、演奏会ピアニストとしてデビューを果たす。
18歳でパリに留学して、ピアノルイ・ディエメに、作曲をレオ・ドリーブテオドール・デュボワに師事。2年後にパリ音楽院においてピアノ演奏および対位法フーガで首席となる。しかしながら1901年12月にワルシャワの雑誌に掲載されたストヨフスキへのインタビューによると、恩師として最も深い影響を受けたのは、ヴァイオリニストのウワディスワフ・ゴルスキと、1891年より師事したピアニストのイグナツィ・ヤン・パデレフスキであったという。パリ音楽院在籍中は、ソルボンヌ大学にも通って哲学歴史文学を修めた。
1891年パリサル・エラールにおける演奏会で、バンジャマン・ゴダールの指揮によって自作の《ピアノ協奏曲 第1番》を上演し、作曲家や演奏家としての国際的な活躍にとりかかる。その後はドイツイングランドの最も重要なオーケストラとも共演し、そのさい自作を上演して大成功を収めた。1898年7月9日ライプツィヒのパデレフスキ国際コンクールにおいて《交響曲 ニ短調》作品21により優勝し、マウリツィ・ザモイスキ・コンクールでは《ポーランド幻想曲》によって準優勝となった。当時のストヨフスキの作風は、ブラームスチャイコフスキーの影響がとりわけ顕著であった。
1901年11月5日に、ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団の第1回演奏会において、エミル・ムイナルスキの指揮により、ストヨフスキの《交響曲》作品21が取り上げられ、コンクールを勝ち抜いた作品として演奏会当日の目玉となった。12月のワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会では、ストヨフスキがソリストとして出演し、翌1902年1月にも再び出演し、十八番のサン=サーンスの《ピアノ協奏曲 第4番》を上演した。
1905年10月に渡米し、ハロルド・バウアーパブロ・カザルスに推挙され、フランク・ダムロッシュが開設したばかりの音楽芸術研究所(ジュリアード音楽学校の前身)の教員に就任するかたわら、ごくわずかな期間でピアニストとして名を揚げた。早くも1906年カーネギー・ホールにおいてフランク・ダムロッシュ指揮のニューヨーク交響楽団と共演し、サン=サーンスの《ピアノ協奏曲 第4番》を弾いた。
幅広い演奏活動に加えて、教育活動にも勤しむ。1911年まで音楽芸術研究所の教壇に立ち、その後は1917年までフォン・エンデ音楽学校の校長に就任した。最終的には、入門志願者のあまりの多さに、マンハッタンの4階建ての自宅に「ストヨフスキ音楽塾(Stojowski Studios)」を開いた。また、米国およびカナダ南米の各地で夏季講習会やマスタークラスを主宰し、1940年から1946年までジュリアード音楽学校でも夏季講習会を催した。
ストヨフスキの最も重要な門人に、アレクサンデル・ブラホツキ、、フィリダ・アシュリー、、ミッシャ・レヴィツキアーサー・レッサーアルフレッド・ニューマンギオマール・ノヴァエス、ハリエット・ウェア、ルイサ・マティルデ・モラレス=マセドがいる。モラレス=マセドはストヨフスキと結婚した女性ピアニスト・作曲家で、1930年代末まで教師としても活躍した。彼女との間にもうけた3人の息子(1919年生まれの長男アルフレッド、1921年生まれの次男ヘンリー、1923年生まれの三男イグナス)を、ストヨフスキは「自分の3つの傑作」と呼んでいた。
ニューヨークでは、偉大な音楽家や名伯楽として称賛され、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏会で自作を取り上げてもらうことのできた最初のポーランド人作曲家という栄誉にあずかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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