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ギリシア独立戦争 : ミニ英和和英辞書
ギリシア独立戦争[せんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [どいつ]
 (n) Germany
独立 : [どくりつ]
  1. (adj-na,n,vs) independence (e.g., Ind. Day) 2. self-support 
独立戦争 : [どくりつせんそう]
 【名詞】 1. American Revolutionary War 2. War of Independence
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 

ギリシア独立戦争 ( リダイレクト:ギリシャ独立戦争 ) : ウィキペディア日本語版
ギリシャ独立戦争[ぎりしゃどくりつせんそう]

ギリシャ独立戦争(ギリシャどくりつせんそう、ギリシャ語:Ελληνική Επανάσταση του 1821(1821年ギリシャ革命)、英語:Greek War of Independence)は、オスマン帝国からのギリシャの独立を巡り争われた戦争。
ギリシャは1821年に独立宣言をして戦闘を開始し、1822年に憲法を発布して暫定政府を設立。1827年ナヴァリノの海戦で優位を確定し、1829年アドリアノープル条約によって自治国としての独立が承認され、1830年ロンドン議定書によって列強間でギリシャの完全な独立が合意され、最終的には1832年6月のコンスタンティノープル条約でギリシャの独立は正式に承認された。ギリシャでは1821年3月25日を独立記念日としている。
ギリシャ独立戦争の局面は大きく二つに分けられる。フィリキ・エテリアの蜂起からギリシャ軍が有利であった1821年から1825年までが第一期、オスマン帝国が有利になりギリシャ軍に壊滅の危機が迫った1825年から1827年が第二期であるが、1827年に列強三国(イギリス、フランス、ロシア)が介入したことによりギリシャの独立は現実味を帯びた。そして1830年ロンドン議定書が締結されたことで独立が決定されたが、そこには多くの問題が含まれていた〔柴(1998)、pp.163-166〕。
== 弱体化するオスマン帝国 ==

1389年、オスマン帝国はコソボバルカン諸侯連合軍を撃破1453年4月、コンスタンティノープルはオスマン帝国によって占領された。この出来事はバルカン半島におけるキリスト教最後の飛び地が消滅したことを意味しており、すでに占領されていたブルガリア、その後にセルビア、ギリシャ、そしてアルバニアと占領され、バルカン半島の大部分はオスマン帝国が支配した〔カステラン (1994)‎、pp.11-12〕。
オスマン帝国はバルカン半島の住民らを無理やりイスラム教に改宗させることはなかったが、武装の権利は奪われ、政治に参加する権利も奪われ〔カステラン (1994)、p.12〕、ギリシャも当初は同じ運命を辿るかに見えた。しかし、オスマン帝国支配下と言えどもギリシャ人らは西欧と恒常的な往来を行っており、また、オスマン帝国の支配も過酷なものではなかった。その証拠にファナリオティスと呼ばれるギリシャ系正教徒のある層はオスマン帝国において政府主席通訳官、提督通訳官、ワラキア公国、モルドバ公国の公位を任され、オスマン帝国における重要な地位を担っていた。また、宗教、言語、民族の異なる人々も宗教を軸として統合、共存を図る緩やかなシステムと強力で効率的な組織が形成されたことでギリシャは「オスマンの平和(パックス・オトマニカ)」の恩恵を受けていたのは間違いなかった〔桜井(2005)、p.269〕〔百瀬他 (2001)、p.52〕。
そしてオスマン帝国下の正教徒らをまとめ上げた正教徒ミレットの長、コンスタンディヌーポリ総主教座、及びミレットの高位聖職をもギリシャ人らが手中に収め、ミレットの長はミレットに課せられていた租税の徴収、納入やミレット内の秩序維持、紛争処理を行ったが、これはオスマン帝国下の正教徒全てに対しての全権を持っていた。そして、このミレットの存在はバルカン諸民族の正教徒とトルコ人を代表とするムスリムとの融合を妨げることになった〔百瀬他 (2001)、p.44〕〔。
その一方でペロポネソス半島ではトルコ人による土地収奪が進んでおり、耕地面積の3分の2が少数派であるトルコ人が所有、残り3分の1をギリシャ系有力地主が支配していた。ギリシャ系有力地主はオスマン帝国より地方自治制度の範囲ながら徴税権や治安維持の権利を与えられていたため特権層となっていたが、彼らはトルコ人らが土地を広げていくことを敵視しており、社会の底辺を形成していた中貧農らもオスマン帝国末期の無秩序と腐敗の犠牲となったために不満をいだいていた。また、東方正教会上層部はオスマン帝国に取り込まれていたものの、下級聖職者らは農民らと行動を共にしていた〔木戸(1977)、p.79〕。
16世紀末から18世紀にかけて、西欧の近代化が急速に進むにつれ、それまでオスマン帝国優位な状況が逆転していく。そのため、18世紀初頭には皮肉にもそれまで「オスマンの衝撃」と呼ばれ西欧に恐れられていたオスマン帝国は逆に「西欧の衝撃」を恐れる立場となっていた〔。
特にロシア帝国は当時、南下政策を採用しており、1710年に勃発した露土戦争の時にオスマン帝国下の正教徒の保護者として振舞っていた〔周藤、村田(2000)、p.230〕。そして1768年から1774年の間に行われた露土戦争で勝利してキュチュク・カイナルジ条約が結ばれて以降、黒海沿岸の拠点を手に入れただけではなく、ロシアと同様の正教を信仰するバルカンの正教徒らの保護権を手に入れた。そのため、ロシアはオスマン帝国への内政干渉を行える立場となり、1778年までに数回に渡ってオスマン帝国へ攻撃を加えたことで、バルカン半島への影響力を高め、さらにバルカン半島に住む人々の多くを成すスラヴ人たちとの同族国家としてバルカン諸民族の独立を支援する立場となっていた。このことは裏を返せば、バルカン半島の諸民族に取ってロシアは解放者であることを意味していた〔百瀬他 (2001)、p.50〕。
この事態においてオスマン帝国支配者層は18世紀以降、軍事分野において近代西欧の技術、モデルを元に西欧化改革を行い、それを徐々に体系化しようとしていた。しかし、それはあくまでも軍事分野においてであり、思想、文化などに関心が及ぶのは19世紀まで待たなければならなかった〔桜井(2005)、pp.269-270〕。
そしてこの西欧の衝撃に感化された人々はオスマン帝国支配層の人々だけではなかった。バルカン半島のキリスト教系諸民族もその影響を受け、その中にはナショナリズムに目覚める人々も生まれ、18世紀においてギリシャ系正教徒の中には「オスマンの平和」の枠組みを内側から突き崩し、内的な西欧の衝撃に感化される人々が生まれていた〔桜井(2005)、p.270〕。そして、バルカン半島において綿花トウモロコシの栽培が17世紀以降、盛んになって輸出されたが、これにロシアオーストリアがバルカン半島に進出し始めたことと絡みあい、商人や水夫らの活動範囲がさらに広がりを見せていく〔木戸(1977)、p.57〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ギリシャ独立戦争」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Greek War of Independence 」があります。




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