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ギリシア火薬 : ミニ英和和英辞書
ギリシア火薬[ぎりしあかやく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひ]
  1. (n,n-suf) fire 2. flame 3. blaze 
火薬 : [かやく]
 【名詞】 1. gunpowder 2. powder 

ギリシア火薬 : ウィキペディア日本語版
ギリシア火薬[ぎりしあかやく]

ギリシア火薬とは東ローマ帝国で使用された焼夷兵器である。東ローマ帝国では海戦において典型的にこの兵器が使用され、これは水上に浮いている間ずっと燃え続けて多大な効果を上げた。この兵器は技術的な優位を与え、東ローマ帝国の多くの軍事的勝利において鍵となる役割を果たした。最も特記すべきはコンスタンティノープルをアラブ軍の2度に渡る攻囲から救出したことである。これにより帝国は生き残ることを得た。
ギリシア火薬は西ヨーロッパの十字軍にある印象を作り出しており、ギリシア火薬という名前はいかなる種類の焼夷兵器にも適用され、これらにはアラブ人、中国人、またモンゴル人によって用いられた焼夷兵器も含まれていた。しかしながら、これらは異なる混合法により作られており、東ローマ帝国の製法によるものではなかった。ギリシア火薬は固い機密保持で守られ、秘密は失われてしまった。ギリシア火薬の配合の問題は推測や議論のままに残されており、松脂ナフサ酸化カルシウム硫黄または硝石の混合物とする意見が見られる。東ローマ帝国で用いられた焼夷用の混合物は、敵の上に液体を噴射する高圧サイフォンの使用によって区別される。「Greek fire」の言葉は英語で一般的なものであり、他言語のそれは十字軍からのもので、オリジナルの東ローマ帝国の資料では数種の名称で呼ばれた。それらは「πῦρ θαλάσσιον、sea fire(海の火)」、「πῦρ ῥωμαϊκόν、Roman fire(ローマの火)」、「πολεμικὸν πῦρ、war fire(戦いの火)」「ὑγρὸν πῦρ、liquid fire(液火)」、また「πῦρ σκευαστόν、manufactured fire(作られた火)」である。
== 歴史 ==

ギリシア火薬の発明に先立ち、焼夷兵器と火炎放射兵器が数世紀のあいだ戦争に使われた。これらには硫黄、石油瀝青をベースとした混合物が幾種類か用いられた。火矢と可燃性の物質を充填したポットは紀元前9世紀初頭に新アッシリア帝国時代のアッシリア人に使われ、またギリシャ・ローマ世界でも広く使われた。
さらに、トゥキディデスは紀元前424年のデリウム包囲戦においてチューブ状の火炎放射器に注目した〔Thuc. 4.100.1〕。海戦では、ヨハネス・マララスが東ローマ皇帝アナスタシウス1世(在位491-518年)の艦隊について記録している。西暦515年、彼らはヴィタリアンの反乱を破るため、アテネからの哲学者Proclusの助言を受けて硫黄ベースの混合物を利用した。
ただし厳密にはギリシア火薬は672年頃に開発されたもので、年代記の著者テオファネスによりカリニコスの功績に帰せられている。彼はPhoeniceの行政管区の内にあり、イスラムの征服の際に侵略を受けたヘリオポリス出身の名匠だった。この資料の正確さと年代学的な正しさには疑問が付される。テオファネスは、コンスタンティノープルにカリニコスが現れたと想定される2年前に、燃焼物を携行しサイフォンを装備した艦船が東ローマ帝国により使用されたことを報じている。もしこれが、攻囲における出来事の年代的な混乱によるものでないならば、それはカリニコスが単に確立されていた兵器を改良して世に出したことを示唆する可能性がある。また歴史家であるジェイムス・パーティントンは、実際にはギリシア火薬が単に同一人物による作成物ではなく「アレクサンドリア化学学校の事績を引き継いだ、コンスタンティノープルの化学者達によって発明された」ことがありうると考察している。11世紀の年代記作者であるゲオルギオス・ケドレノスは、カリニコスがエジプトヘリオポリス出身であると確かに記録しているが、これは大部分の学者が間違いとして拒絶している。ケドレノスもまた顛末について記録したものの、より受け入れがたいものと考えられている。これはカリニコスの子孫の一家が「Lampros(すばらしいの意)」の名で呼ばれて火薬の製法の秘密を保ち、それは彼の時代まで続いたとするものである。
カリニコスのギリシア火薬の開発は東ローマ帝国の歴史において存亡の瞬間に成された。サーサーン朝ペルシアとの長い戦争により東ローマ帝国は疲弊し、イスラムの征服とその猛攻に対して効果的な防衛を行えなくなっていた。1世代のうちに、シリア、パレスチナ、そしてエジプトはアラブの支配下に落ち、彼らは672年ごろに帝国の中心地であるコンスタンティノープルを奪取しようと試みた。ギリシア火薬はイスラムの艦隊に大きな効果を挙げ、アラブによる第一次第二次の市街の包囲から彼らを撤退させる助けとなった。
サラセン人との海戦の後、ギリシア火薬の使用記録はより散発的なものとなる。しかし特に9世紀から10世紀初頭、東ローマ帝国拡大の時期にこの兵器はいくつかの勝利を確実なものとした。この化学物質の利用は東ローマ帝国の内戦において顕著であった。主なものは727年の軍管区が保有する艦隊の反抗であり、また821年から823年のトマス・ザ・スラヴが率いた大規模な反乱である。両方の場合とも、反乱艦隊は、コンスタンティノープルの帝国艦隊がギリシア火薬を用いることで打破された。また、東ローマ帝国はボスポラス海峡への様々なルーシ族の攻撃に対し、壊滅的な効果のためにギリシア火薬を用いた。特に941年および1043年の戦争の際に投入が行われた。また970年から971年のブルガリア戦争中も同様に、燃焼物を携行した東ローマ帝国の艦船はドナウ川を封鎖した。
帝国とアラブとの抗争の時期におけるギリシア火薬の重要性から、この兵器の発見は神の干渉に帰するとされるにまで至った。コンスタンティノス7世・ポルフュロゲネトス(在位945年から959年)は彼の著作『帝国統治論』の中で、彼の息子であり相続者だったロマノス2世(在位959年から963年)に訓戒している。この兵器の配合の秘密は決して明らかにしてはならず、「天使によって秘密が明らかにされ、偉大かつ神聖な最初のキリスト教の皇帝であるコンスタンティヌス1世に示された」としている。また天使は彼に制限を加え、「キリスト教徒とただ帝国の都市のみを除き、この兵器を製造しないこと」とした。警告としてコンスタンティノス7世は、この兵器の一部を帝国の敵に渡すよう買収されたある官吏を例とし、彼が教会に踏み入ろうとしたとき、「天国からの火」によって打ち倒された、と付け加えている。後代の事件が証明するように、東ローマ帝国人は彼らの貴重な秘密兵器の鹵獲を防止できなかった。827年、アラブ側は少なくとも一隻の火船を無傷で捕獲し、812年および814年にはブルガリア人がいくつかのサイフォンとギリシア火薬自体を多量に捕獲した。しかしながらこうした鹵獲は、東ローマの敵がこれらの兵器を複製可能とするには明らかに不十分だった。アラブ側はたとえば、東ローマ帝国の兵器に似た様々な焼夷物質を使用したものの、彼らにはサイフォンを用いる東ローマ帝国の方式が全く模倣できず、その代わりにカタパルトと手榴弾を使った。
ギリシア火薬に関する記述は12世紀の間にもなされ続け、1099年のピサ人との海戦において、アンナ・コムネナは使用の克明な説明を行った。しかし第4回十字軍による1203年のコンスタンティノープル包囲戦では、即席の火船が間に合わせに投入されたことが言及されるが、実際にギリシア火薬が使用されたかについて確実な記録はない。これはおそらく略奪に先立つ20年間に帝国が広汎な軍備縮小を行ったことが原因であるか、東ローマ帝国が、主要な成分を供給する地域との交通を絶たれたことによるか、またはおそらく秘密が時間と共に失われたことによる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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