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エイブラハム平原の戦い : ミニ英和和英辞書
エイブラハム平原の戦い[えいぶらはむへいげんのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
平原 : [へいげん, ひらはら]
 【名詞】 1. plain 2. moor 3. prairie
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

エイブラハム平原の戦い : ウィキペディア日本語版
エイブラハム平原の戦い[えいぶらはむへいげんのたたかい]

エイブラハム平原の戦い、またはケベックの戦い(、、、)は、七年戦争北アメリカではフレンチ・インディアン戦争)の中枢となる戦いである。1759年9月13日に、ケベックの要塞の外にある台地で、イギリス陸海軍とフランス陸軍の間で行われた戦闘のことで、元々エイブラハム・マーティンという農民がこの地を所有していたことが、この戦いの名前の由来となった。
この戦いは、両軍合わせて少なくとも1万の部隊が投入され、後のカナダの形成に影響を与え、ヌーベルフランスの運命を決定づけるという点で、北アメリカでの英仏両国の戦いの中で最大の山場となった〔Battle of Quebec 当時の軍服や装備についても言及あり〕。
3か月に及ぶイギリスの包囲作戦で、頂点というべきこの戦いは15分ほどで幕を閉じた。ジェームズ・ウルフ将軍に率いられたイギリス部隊は、ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム指揮下のフランス部隊、そしてカナダ(ヌーベルフランス)の民兵に効率よく立ち向かった。その戦術は、ヨーロッパの大きな戦争ではかなり効を奏していた。この戦いで双方の将軍は致命傷を負い、ウルフは開戦からわずか数分後に受けた弾丸がもとで世を去った。そしてモンカルムもまた、下腹部に弾丸を受け、翌朝死亡した。既に開戦の時点でフランス軍やカナダ民兵は、至近距離からのイギリス軍の容赦ない集中射撃により、かなりの圧力を受けていた〔浅野明監修 C・ヨルゲンセン他著 『戦闘技術の歴史(3)近世編』 2010年、291‐297頁。〕。
フランス軍はケベック陥落後も戦いを続け、いくつかの戦いでは優勢に立っていたが、イギリス軍は要塞の占領にこだわり続け、それが北アメリカの他の植民地にも及び、北アメリカ東部のフランスの植民地はその後4年間でイギリスに割譲されてしまった。
== ボーポールの戦い ==

七年戦争は、期間の後半の1758年から1759年にかけて、北アメリカ北東部のフランス軍とフランス植民地が、イギリスの新戦力の前に屈していった。1758年のカリヨンの戦いでの敗退ののち、イギリスは8月にルイブールの包囲に出て、カナダ大西洋岸をイギリスの手に納め、ケベックへの攻撃の拠点となる海路を開いた。同じ8月にフォート・フロンテナックがイギリスの手に落ち、オハイオ渓谷へ行軍中のフランス補給部隊が犠牲になった。フランスは、部隊を引かざるを得なかった。イギリスの勝利により、フランスの指揮官、とりわけ総督ヴォードルイユと、将軍モンカルムは不安を覚えたが、ケベックはまだ防御が可能だった。後に実践されることになるイギリスの三叉戦法は、この時点では未完成だったからだ。
イギリス側のジェームズ・ウルフは、1万2千の兵を率いることになっていた。しかし彼を出迎えたのは約400名の士官、7,000人の普通部隊、300人の砲兵そして海兵隊であり、チャールズ・ソーンダース提督率いる49艘の船と140艘の小型船舶の艦隊の支援を受けていた。
艦隊がケベックに近づく前の準備として、ジェームズ・クックセントローレンス川の測量に入った。この川には、トラバースクックの船をはじめとした第一団の船団が川に入り、河床の深さを測りつつ、上って来た艦隊を導いて、ウルフと兵士たちは6月28日にオルレアン島 (en) に上陸した〔.〕。フランス軍は、7艘の爆薬を仕掛けた船を送りこんで上陸を妨げようとしたが、船の爆発があまりに早すぎ、イギリスの水兵たちは炎上するフランスの船を艦隊から引き離すことができた〔.〕。翌日、ウルフの部隊はケベックから川をまっすぐ渡っただけの場所である、セントローレンス川の南岸のレヴィに上陸した。7月の始めにはそこに砲台が築かれた。その砲台からは、ケベックのローワータウンが射程に入った。
指揮官のあいだでは敗北主義的な空気が漂っていたが〔.〕、正規のフランス部隊、そしてカナダ民兵はイギリスによるボーポールへの攻撃に対しての準備に照準を合わせていた。モンカルムと部下の少将フランソワ=ガストン・ド・レビ 、大佐のルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル、そして中佐のセネツェルギュは〔.〕、1万2千人の部隊をセントローレンス川からモンモランシー滝 (en) まで、セントローレンス川の瀬に沿った9キロの長さにわたる要塞と砲台に配した。かつて、上陸を目論むイギリス軍の標的となった場所だった〔.〕。イギリスの攻撃に先立ち、多すぎるほどの支援軍を乗せた艦隊がケベックに到着した〔。長期にわたる包囲への援軍だった。
ウルフがボーポールの町を見下ろしたところ、町にはバリケードが築かれ、銃撃戦に耐えられるようにしているのに気がついた。バリケードは道に沿って途切れることなく築かれていて、手ごわい要塞となっていた。加えて、モンモランシー川に木々が覆い茂り、この道から近づくのは危険だった。7月31日、ウルフの部隊が北岸に降り立ち、最初の重要な戦いであるボーポールの戦い、またはモンモランシーの戦いが始まった。約3,500人の部隊が、激しい砲撃を受けながら上陸した。ルイスブール・グレナディアーズ (en) の兵士は浜にたどりつき、ばらばらな攻撃をフランスの陣地にしかけたが、そこにも砲火が迫ってきた。この戦いはとで打ち切られ、ウルフは約450人の負傷者を出して部隊を退かせた。フランス軍の負傷者は60人だった〔.〕。
フランスの士官の一部は、モンモランシーでの敗北がイギリスにとって最後の攻撃になるだろうと考えた。ボードレイユはのちに「私はケベックには何の心配も感じなかった。確かに、ウルフは何の進歩もないだろう…彼は最良の兵士の約500人を失ったことに甘んじたのだ」と記している。ボードレイユはまた、数日中に新たな攻撃があるだろうと予言した〔.〕。他の士官は、軍事行動はもう終わりだと考えていた。
この戦いが終わってから、ウルフの視点は変わった。モンカルムの守備戦術に業を煮やしたウルフの部隊はアメリカ陸軍レンジャー部隊 (en) と共に行動し、セントローレンス湾に沿った小さなフランスの植民地を攻撃し、破壊した。およそ1,400もの石造りの家や邸宅が壊され、入植者の多くが犠牲になった。この戦果は、モンカルムの軍を城塞から引き離そうとしたかに見えたが、失敗した。〔.〕しかしながら、この攻撃によりフランスへの援軍を減らせたのは事実だった。特にイギリス海軍としては、セントローレンス川を完全に制することができなかったものの、この援軍減らしのおかげで、フランス側の港を封鎖できたのである〔.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エイブラハム平原の戦い」の詳細全文を読む




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