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イングランド銀行 : ミニ英和和英辞書
イングランド銀行[イングランドぎんこう]
(n) Bank of England
===========================
イングランド銀行 : [いんぐらんどぎんこう]
 (n) Bank of England
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ぎん, しろがね]
 【名詞】 1. (1) silver 2. silver coin 3. silver paint
銀行 : [ぎんこう]
 【名詞】 1. bank 
: [くだり, ぎょう]
 【名詞】 1. (1) line 2. row 3. (2) verse 
イングランド銀行 : ウィキペディア日本語版
イングランド銀行[いんぐらんどぎんこう]

イングランド銀行(イングランドぎんこう、)は、イギリス中央銀行。正式名称は「」となる。
本店がシティ〔400以上の外国銀行証券取引所海上保険庁その他の金融機関が並んでいる。〕のスレッドニードル通りに所在するため、「スレッドニードル通りの老婦人」とも呼ばれる。過去には「英蘭銀行」とも書かれた〔この場合「英蘭」は「イングランド」の音訳であり、「イギリスとオランダ」(英蘭戦争など)を意味しない。〕。
創立時は大同盟戦争ウィリアム王戦争、そしてザームエル・オッペンハイマーの活躍する大トルコ戦争のさなか。当時は政府への貸付を主要な業務とする商業銀行であった。また、政府を通してイギリス東インド会社ハドソン湾会社などへも貸付を行っていた。〔ジョン・クラパム 山村延昭訳 『イギリス経済史概説』 未来社 1981年 p.396.
:原書 ''A Concise Economic History of Britain, From the Earliest Times to 1750'' Cambridge University Press, 4th ed., 1963〕中央銀行となるのはピール銀行条例以降である。
1701年と1751年の株主層は概観が分かっている(#機能)。
1816年に金本位制を採用した。やがてロスチャイルドが台頭し、各国の外債発行とイングランド銀行の準備金補填に関わった。1870年からピークとなる銀価格低下の時期に、アルフレッド・ド・ロスチャイルドが理事となった。
第一次世界大戦ではJPモルガンが戦時国債の独占代理人を務めた。1934-1935年、イングランド銀行は植民地の中央銀行設立に関わった。戦後は大きな権限縮小を免れ、金プールの運営に参画した。1995年以降、CSD のCREST は国際銀行間通信協会を経てユーロクリアというモルガン資本に編入された。
== 近代 ==

1694年、軍事費を調達する目的で創設〔これは、名誉革命によって国王となったウィリアム3世治下のイングランドがオランダ財政に学んだ結果でもあった。〕。スコットランド人ウィリアム・パターソン〔ウィリアム・パターソンは翌年のスコットランド王国政府のスコットランド銀行設立にも関わっているが、スコットランド銀行は経済的に深刻な状況にあったスコットランド国内への投資およびスコットランド会社によるダリエン計画への投資を目的としておりその性格は異なっている。1707年、スコットランドの経済破綻に伴い連合王国が成立。〕と財務府長官チャールズ・モンタギューによる。イングランド王国政府の銀行として同年7月27日ウィリアム3世メアリー2世勅令により認可された。初代総裁はジョン・フーブロン。当時、同銀行の設立に加え、証券市場の成立などの改革も進められた〔井野瀬(2007)〕。
1699年、イギリスが清から広東貿易を許される。1720年、南海泡沫事件
1734年、当行は現在地に移転。次第に敷地を拡張していった。
1750年、長期国債の発行権を独占する〔〔1752年、コンソル公債が発行される。ロンドン証券取引所において国債取引の比率が5%に落ち込んだ1914年でさえ、金縁証券の筆頭たるコンソルだけは、低リスクゆえに流動性を誇り、最大の取引対象であった。〕。1764年、砂糖法
1797年、イングランド銀行制限法により兌換停止。対仏大同盟に基づいた活動により正貨が流出して、前年から恐慌がおきていた。イギリスの銀行はこの年270行であったが、1810年には783行となる。1810年の地金委員会による調査で、このときの兌換停止は金高騰と為替相場下落の原因と指摘された。〔吉岡昭彦 『近代イギリス経済史』 岩波書店 1981年 p.14.〕〔1819年にロバート・ピールが議会で開いた委員会でも、金高騰・通貨下落の原因とされた。この委員会は、イングランド銀行が私利のために銀行券を過剰発行することを懸念し兌換再開を結論・勧告した。
:米川伸一 『概説イギリス経済史 現代イギリス経済の形成』 有斐閣 1986年 p.22.〕

1807年、大英帝国内での奴隷貿易が禁止される。バルト海貿易で富を築き、当銀行理事を務めたジョン・ソーントンは、息子ヘンリや総裁を務めたサミュエルらとともに奴隷貿易廃止法案に尽力していた〔。この禁止は帝国内の経済に長期的な打撃となり、1815年恐慌と1819年恐慌の背景となった。
1816-1817年に兌換が部分的に再開され〔1816-1818年、ナポレオン銀貨を481万7000ポンド鋳造。〕、1823年で全面的に再開された。1822年にハプスブルク家がロスチャイルド一族全員に男爵位を授与している。このころ外債が洪水のように契約されていた。ロスチャイルドは請負人として最も活躍した〔クラパム 『イングランド銀行 2』 ダイヤモンド社 1970年 p.57, pp.101-102.
:原書 ''A BANK OF ENGLAND A History Volume.2. 1797-1914''
1822年の発行国は主に手堅く、ロシアプロシアデンマークなど。チリ債とコロンビア債は4年たつと利子の支払いがとだえた。1823年の発行国は、オーストリアポルトガルスペイン。1824-1825年は南米から1800万ポンド。1827年で利子が払われなくなる。〕。ロスチャイルドはロンドンの投資家の関心を呼ぶためにスターリング・ポンド建て外債の利率を定めていた。また、1823年と1825年に代理商取引法が制定されたことは契約を促した。
1823年6月、国庫委員会の議事録にネイサン・メイアー・ロスチャイルドが登場する〔クラパム 『イングランド銀行 2』 ダイヤモンド社 1970年 pp.88-89.〕。同年3月すでに、フランスが総額1億2000万フランの公債を発行するにあたり、ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドがシ団を組織し引受けた。アッシニアの担保に財産を没収された教会・貴族の反発があるも、フランス政府は低利借り換えを画策。実現に向けて公債相場を維持するため〔ジャン・ブーヴィエ 『ロスチャイルド ヨーロッパ金融界の謎の王国』 河出書房 1969年 pp.74-83.〕、ネイサンは翌年5月イングランド銀行から1年間金100万ポンドの保証を受ける。12月1日に保証額中30-50万ポンドを持ち出し〔、担保としてイギリスの「整理公債」を預託、持ち出した金塊はフランス銀行に預け入れた。結局、利率が低すぎてシ団半壊。ロスチャイルドは残り、逆に力を誇示することになった〔。
1825年、イングランド銀行から欧州まで恐慌の波が及んだラテンアメリカ投機の一部について株価の暴落したことが引き金となった〔外債の洪水が600以上の会社を設立させていた。
:クラパム 『イングランド銀行 2』 ダイヤモンド社 1970年 pp.101-102.〕。フランス銀行に正貨の供給を受けた〔浜は、ネイサンが「欧州から金をかき集め」たと書いている。
:浜矩子 「金融大冒険物語」 エコノミスト (雑誌) 2009/1/13 pp.62-63.
兌換再開からの動きに照らすと、かき集めたというより、外国へ貸し出した金を回収しただけのようである。〕おかげで、破綻寸前で踏みとどまった〔クラパムは数値を挙げて金の枯渇こそ否定するも取り付けのあったことは否定せず。一方、ジュグラーの資料によると凄まじい枯渇が読み取れる。1824年1月に1350万ポンドあったのが、1825年12月には120万ポンドにまで減少。〕。この惨事は社会運動に発展し、紡績工場法が修正されたり、労働組合が承認されたりした。また、銀行券、特に小額紙券の流通量を著しく減らす〔恐慌のときにやむなく1ポンド紙幣を60万枚発行していた。流通の減少を受けて1832年には銀行券偽造に対する死刑が廃止された。〕。
1833年の新特許法でイングランド銀行券が法貨となる。同年、クラウン・エージェンツ〔伝統的には植民地政府などの代理人をこなした。ユーロクリアのできた頃には80の政府と160以上の公的当局、国際組織のために活動していた。また、この頃から銀行関連業務にも従事し始めた。〕が政府により創設される。
1839年、マンチェスター商業会議所が、それまでの3年間における金利の恣意的な変更が為替相場を乱高下させたと主張〔吉岡 p.61.〕。勢いづいていたチャーティズムを政府は翌年4月にかけ弾圧。また、この年に国内電信が敷設される。
1844年、ピール銀行条例により中央銀行となる〔19世紀半ばのヴィクトリア朝時代から第一次世界大戦の終わりまでのイギリスは「世界の銀行」と呼ばれ、世界各地の政府、鉱山、工場、プランテーションなどに投資して、利子を稼いだ。統計によれば、1914年における、世界の海外投資の43パーセントをイギリスが占めた。〕。鉄道狂時代が続く。
1851年、ロスチャイルド商会が貴金属精錬所を設立。この年、ドーバー海峡横断ケーブル開通。翌年にロスチャイルドの精錬所はイングランド銀行で2番目の公認精錬所となる。〔クラパム 『イングランド銀行 2』 pp.308-309.〕
1856年、パリ宣言私掠船の放棄が謳われる。
1857年恐慌。アメリカ株を中心に市場が弱気となる。イングランド銀行は単独で割引を継続。11月20日だけで100万ポンド近い法定限度超過。追ってピール銀行条例が停止。〔A. アンドレァデス 『イングランド銀行史』 日本評論社 1971年 pp.410-413.
:原書 A. Andreades ''Histoire de la Banque d'Angleterre'' 2tom. Paris 1904〕以後、イギリスが世界の実質的な手形交換所と化す〔吉岡 p.103.〕。
1861年、それまでイングランド銀行が25年ごとに国債所有者名簿を閉じていた慣習を廃止〔リチャード・ロバーツ/デイヴィッド・カイナストン編 浜田康行/宮島茂紀/小平良一訳 『イングランド銀行の300年』 東洋経済新報社 1996年 pp.191-192.〕。
1866年の恐慌でベイルアウト。発端は割引商会オーバーレンド・ガーニーの失敗に関連した国際金融市場のしぼみと、イタリアでの銀本位制廃止。これにより横浜へ進出していた銀行支店が3つも撤退した。公定歩合10%。二度目の特許状停止。同年、ホンジュラスにおき鉄道スキャンダルさらに移民法制定
1857年恐慌から1873年恐慌を経て、:en:City of Glasgow Bank が詐欺的な業務の上に破産した1878年までの20年間は、金利の変更が実に年平均10回にまで及んだ。〔米川 p.167.〕途中の1868年にはアルフレッド・ド・ロスチャイルドが理事に就任している。終わりの1878年には首相のローズベリーがネイサンの孫ハンナと結婚した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イングランド銀行」の詳細全文を読む




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