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ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド : ミニ英和和英辞書
ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド : ウィキペディア日本語版
ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド[ちょうおん]

ジェームス・ド・ロチルド男爵(Le baron James de Rothschild, 1792年5月15日 - 1868年11月15日)は、フランスの銀行家、貴族。マイアー・アムシェル・ロートシルトの五男で、パリ・ロチルド家(英語読みでロスチャイルド家)の祖にあたる人物。
初名はヤーコプ・マイアーJakob Mayer)、フランス移住後にジェームスJames)と改名した。
== 経歴 ==
1792年にロートシルト家(ロスチャイルド家)の始祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトの五男(末子)としてフランクフルト・アム・マインに誕生。初名はヤーコプだったが、フランス移住後にジェームスに改名した(英語風の名前にすることでロンドン・ロスチャイルド家との繋がりを強調し、商売をやりやすくするためだったと見られる)〔池内(2008) p.38/48〕。
1811年3月24日フランス帝国首都パリへ移住した。当時彼はまだ19歳でフランス語も満足にしゃべれなかったが、三兄ネイサンが手がけていた大陸の金塊をイギリス軍司令官ウェリントン公のもとに運ぶ金密輸業をパリ市内の情報操作を通じて支援した。ジェームスの巧みな情報操作によりフランス政府はこの動きを掴んでいなかったばかりか、逆にジェームスがイギリスから大陸に金を流出させていると信じ込み、ジェームスを称賛したほどだった〔モートン(1975) p.48-50/69〕。
ナポレオン戦争後、フランスにブルボン家復古王政が樹立され、追放されていた貴族たちが続々とフランスに戻ってきたが、彼らは新しい時代の財産管理の方法が分かっていない者が多かった。そこに目を付けたジェームスは彼らの財産管理の相談に乗ることでの顧客にしていった〔池内(2008) p.48〕。ブルボン家の公債をめぐる金融業務は当初フランス金融界の名門ウーブラール、および英国金融界の名門ベアリングス銀行に任されており、新参者のジェームスは排除されていたが、1818年のアーヘン会議(フランスの賠償金をめぐる列強の会議)で立場を挽回して公債発行に加わることに成功した〔モートン(1975) p.54-57〕。
銀行業に優れた才覚を持つジェームスは、ある時は単独で、ある時はロンドンのネイサンと協力して、ヨーロッパ各国に巨額の起債を行った〔横山(1995) p.80〕。その功績で各国と親密な関係を築き、1821年8月21日にはオーストリア帝国から総領事の地位を与えられ〔モートン(1975) p.70〕、1822年にはハプスブルク家よりジェームスを含めたロスチャイルド一族全員に男爵位が授与された〔横山(1995) p.75〕。同年、ロシア皇帝からもを送られ、翌1823年にはフランス政府からもレジオンドヌール勲章を授与された〔クルツ(2007) p.82〕。
1830年7月革命でブルボン家の復古王政が倒され、親ブルジョワ的なオルレアン家ルイ・フィリップがフランス国王に即位した(7月王政)。この革命熱はブリュッセルにも波及し、ベルギー独立闘争が起こった。この際に各国が反フランス包囲網を作り、戦争ムードになったが、ジェームスは「ロチルド銀行は戦争の為には一銭も出さない」と宣言することで各国を牽制して戦争を阻止し、もってベルギーの独立を助けた〔池内(2008) p.49-50〕。
ジェームスは新国王ルイ・フィリップとも親密な関係を保った。そのためルイ・フィリップ王はロチルド銀行にフランス国債を独占的に任せ、また国王個人の投資事業も委ねた〔モートン(1975) p.74〕。ジェームスはルイ・フィリップの治世から鉄道への投資を熱心に行うようになり、1837年にはパリ=サンジェルマン間、1839年にはパリ=ベルサイユ間の鉄道建設に尽力した。1846年には北部鉄道を設立している〔モートン(1975) p.107-108〕。この頃からジェームスは鉄道王と呼ばれるようになった。
1836年にロンドンの兄ネイサンが死去するとロスチャイルド家全体の家長的存在となった〔クルツ(2007) p.104〕。
1848年革命でフランスは共和政となり、11月にはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオンが大統領に当選した(1851年にクーデタを起こし、1852年にフランス皇帝ナポレオン3世となる)。ナポレオン3世にはジェームスとライバル関係のユダヤ金融業者がスポンサーに付いていた。その関係からフールが大蔵大臣に任命された(この人事を聞いたジェームスは「ふーん、新しいワーテルローの臭いがするね」という感想をもらしたという)〔モートン(1975) p.76〕。
1852年にはナポレオン3世とフールの庇護を受けるユダヤ金融業者が投資銀行の先駆けとされるを立ち上げ、ジョルジュ・オスマンパリ改造を支援したり、鉄道をはじめとする各分野に積極的な融資を行うようになり、商業銀行業務が中心だったロチルド銀行と競合するようになった。しかしロチルド家が堅実で安全重視の投資で着実な成功を維持したのに対し、クレディ・モビリエは無謀で投機的な投資を手当たり次第に行った〔クルツ(2007) p.108〕。その結果、クレディ・モビリエは、1860年頃には凋落の様相を呈した。1862年、ペレール兄弟は苦境打開のためにフランス国債を独占的に任せてほしいとナポレオン3世とフールに要請したが、この頃には二人ともクレディ・モビリエを見限っており、ロチルド銀行にフランス国債を任せることにした。フランス政府とロチルド家の和解のシンボルとして、1862年2月17日にナポレオン3世がジェームスのを訪問した。ジェームスとナポレオン3世は食事や狩猟や美術品鑑賞を共にして楽しんだ。一方ナポレオン3世に見捨てられたクレディ・モビリエの株価は下がり続け、1867年には倒産した。ジェームスの完全勝利であった〔モートン(1975) p.126-128〕。
1860年代後半にナポレオン3世がチュイルリー宮殿で催した晩餐会に出席した際、ワルツ『平和なくして帝国なし』が流れたが、この時ジェームスはナポレオン3世に「お分かりですか」と念を押したという。しかしナポレオン3世には分かっていなかった。彼はジェームスの死後の1870年にフランスを破滅的な戦争へ導くことになる〔モートン(1975) p.128〕。
最晩年の1868年にブドウ園シャトー・ラフィットを購入した〔クルツ(2007) p.73〕。同年、76歳で死去した〔モートン(1975) p.128〕。最終的にジェームスの資産は6億フラン以上だったと見られている。彼のロチルド銀行は他のフランス主要銀行の資産を全て合計した金額よりさらに1億フラン多く持っていたと見積もられている〔モートン(1975) p.72〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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