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マラ8 : ウィキペディア日本語版
交響曲第8番 (マーラー)[こうきょうきょくだい8ばん]

交響曲第8番(こうきょうきょくだい8ばん、ドイツ語名:Symphonie Nr. 8)変ホ長調グスタフ・マーラーが作曲した8番目の交響曲
== 概要 ==
マーラーの「ウィーン時代」の最後の作品であり、同時にマーラー自身が初演し耳にすることのできた最後の作品となった。 第8番の編成は、交響曲第7番までつづいた純器楽から転換し、大規模な管弦楽に加えて8人の独唱者および複数の合唱団を要する、巨大なオラトリオあるいはカンタータのような作品となっている。構成的には従来の楽章制を廃した2部構成をとり、第1部では中世マインツ大司教ラバヌス・マウルス(776?~856)作といわれるラテン語賛歌「来たれ、創造主たる聖霊よ」、第2部では、ゲーテ戯曲ファウスト 第二部』の終末部分に基づいた歌詞が採られている。音楽的には、音階組織としての調性音楽からは逸脱していないが、大がかりな編成、極端な音域・音量、テキストの扱いなどに表現主義の特質が指摘されている。
演奏規模の膨大さから『千人の交響曲』(''Symphonie der Tausend'' )の名で広く知られているが、これはマーラー自身の命名ではなく、初演時の興行主であるエミール・グートマンが初演の宣伝用ポスターにこの題名を使ったものである。マーラーはこのキャッチフレーズを嫌っていたとされる。この初演については後述するが、マーラーの自作演奏会として生涯最大の成功を収めたと同時に、近代ヨーロッパにおいて音楽創造が文化的事件となった例のひとつとなった。
この曲についてマーラーは、ウィレム・メンゲルベルクに宛てた手紙で「私はちょうど、第8番を完成させたところです。これはこれまでの私の作品の中で最大のものであり、内容も形式も独特なので、言葉で表現することができません。大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」と述べている。また、「これまでの私の交響曲は、すべてこの曲の序曲に過ぎなかった。これまでの作品には、いずれも主観的な悲劇を扱ってきたが、この交響曲は、偉大な歓喜と栄光を讃えているものです」とも書いている。
このように、第8番はマーラーの作品中最大規模であるだけでなく、音楽的にも集大成的位置づけを持つ作品として、自他ともに認める存在であった。にもかかわらず、現代において、マーラーの交響曲中でも演奏機会に恵まれず、評価・解釈としても言及されることが少ない。これには、巨大な編成のために演奏者や会場の確保など演奏会の興行自体が難しいこと、一般的な「交響曲」の枠組みから見て変則的な構成をとっていること、さらには、曲の性格がきわめて肯定的で信仰や生に対する壮大な賛歌であり、つづく『大地の歌』や交響曲第9番などに象徴される、厭世観との関連あるいは分裂症的などと評されるマーラー作品への一般的な印象や理解とかけ離れていること、が挙げられる。'Symphonie der Tausend'' )の名で広く知られているが、これはマーラー自身の命名ではなく、初演時の興行主であるエミール・グートマンが初演の宣伝用ポスターにこの題名を使ったものである。マーラーはこのキャッチフレーズを嫌っていたとされる。この初演については後述するが、マーラーの自作演奏会として生涯最大の成功を収めたと同時に、近代ヨーロッパにおいて音楽創造が文化的事件となった例のひとつとなった。
この曲についてマーラーは、ウィレム・メンゲルベルクに宛てた手紙で「私はちょうど、第8番を完成させたところです。これはこれまでの私の作品の中で最大のものであり、内容も形式も独特なので、言葉で表現することができません。大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」と述べている。また、「これまでの私の交響曲は、すべてこの曲の序曲に過ぎなかった。これまでの作品には、いずれも主観的な悲劇を扱ってきたが、この交響曲は、偉大な歓喜と栄光を讃えているものです」とも書いている。
このように、第8番はマーラーの作品中最大規模であるだけでなく、音楽的にも集大成的位置づけを持つ作品として、自他ともに認める存在であった。にもかかわらず、現代において、マーラーの交響曲中でも演奏機会に恵まれず、評価・解釈としても言及されることが少ない。これには、巨大な編成のために演奏者や会場の確保など演奏会の興行自体が難しいこと、一般的な「交響曲」の枠組みから見て変則的な構成をとっていること、さらには、曲の性格がきわめて肯定的で信仰や生に対する壮大な賛歌であり、つづく『大地の歌』や交響曲第9番などに象徴される、厭世観との関連あるいは分裂症的などと評されるマーラー作品への一般的な印象や理解とかけ離れていること、が挙げられる。' )の名で広く知られているが、これはマーラー自身の命名ではなく、初演時の興行主であるエミール・グートマンが初演の宣伝用ポスターにこの題名を使ったものである。マーラーはこのキャッチフレーズを嫌っていたとされる。この初演については後述するが、マーラーの自作演奏会として生涯最大の成功を収めたと同時に、近代ヨーロッパにおいて音楽創造が文化的事件となった例のひとつとなった。
この曲についてマーラーは、ウィレム・メンゲルベルクに宛てた手紙で「私はちょうど、第8番を完成させたところです。これはこれまでの私の作品の中で最大のものであり、内容も形式も独特なので、言葉で表現することができません。大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」と述べている。また、「これまでの私の交響曲は、すべてこの曲の序曲に過ぎなかった。これまでの作品には、いずれも主観的な悲劇を扱ってきたが、この交響曲は、偉大な歓喜と栄光を讃えているものです」とも書いている。
このように、第8番はマーラーの作品中最大規模であるだけでなく、音楽的にも集大成的位置づけを持つ作品として、自他ともに認める存在であった。にもかかわらず、現代において、マーラーの交響曲中でも演奏機会に恵まれず、評価・解釈としても言及されることが少ない。これには、巨大な編成のために演奏者や会場の確保など演奏会の興行自体が難しいこと、一般的な「交響曲」の枠組みから見て変則的な構成をとっていること、さらには、曲の性格がきわめて肯定的で信仰や生に対する壮大な賛歌であり、つづく『大地の歌』や交響曲第9番などに象徴される、厭世観との関連あるいは分裂症的などと評されるマーラー作品への一般的な印象や理解とかけ離れていること、が挙げられる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Symphony No. 8 (Mahler) 」があります。



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