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26人のバクー人民委員 : ウィキペディア日本語版
26人のバクー・コミッサール[26にんのばくー こみっさーる]

26人のバクー・コミッサール(26にんのバクー・コミッサール、)とは、バクー・コミューン () のメンバーであったボリシェヴィキとの党員たちである。
バクーに設立され、ステパン・シャウミャンに率いられたこのコミューンは、1918年6月26日にメンシェヴィキ社会革命党右派に倒されるまで存在した。コミューンの崩壊後、メンバーはバクーを逃れようとしたが、カスピ海艦隊中央委員会独裁政権によって捕らえられ、投獄された。ソ連側の史料によれば、オスマン帝国軍占領下のバクーで、同年9月14日に赤軍の兵士らがコミッサールたちのいる刑務所を襲撃し、彼らを解放した。その後、コミッサールたちはクラスノボツク行きの船に乗り込もうとしたが、ほどなく地元の当局に逮捕され、同月20日にカスピ海横断鉄道沿線で処刑されたという。
== 背景 ==

バクーにおいてアルメニア人ボリシェヴィキステパン・シャウミャンの主導でソビエトが発足したのは、ロシア臨時政府の崩壊から1週間後の1917年11月15日のことである。この時に議長に選出されたのはシャウミャンだったが、それは専ら彼の人望によるもので〔木村英亮 『ロシア現代史と中央アジア』 有信堂高文社、1999年、204頁。ISBN 978-4842075082〕、同地のボリシェヴィキは元来強い勢力ではなかった。同月の憲法制定会議選挙におけるボリシェヴィキの支持率は南カフカース全域で4.3パーセント、バクーに絞っても14パーセントに過ぎず、そのうち79パーセントは兵士層からの得票だった〔。その後に生まれたバクー・コミューンもまた、1918年4月13日に生まれ7月26日に消えた短命な政体だった。コミューンが権力を握ったのはムスリムとの間の流血の争い()の後のことであるが、その短い統治機関の間にも、コミューンは食料、物資の不足やオスマン帝国の脅威など、数々の問題に直面することとなった。
発足当時のメンバーは、ボリシェヴィキからシャウミャン(議長兼外務委員)、プロコーフィー・ジャパリーゼ(執行委員会議長)、ヤーコフ・ゼヴィン(労働委員)、メシャジ・アジズベコフ(地方長官)、(都市経済委員)、イヴァン・フィオレトフ(経済委員)、アルタシェス・カリニャン(法務委員)、ナジェジダ・コレスニコワ(教育委員)が、からミル・ガサン・ヴェジロフ (en)(農務委員)とI・スハルツェフ(鉄道・海運・郵政・通信委員)が就任している。
6月には石油産業と商船が国有化され、同月18日には豪農の土地が小作農へ分配された。8時間労働制が導入されて労働者の賃金は増し、成人向けの学校や人民大学も開かれた〔。また、ロシアの大部分においてボリシェヴィキが敵対者を冷酷に処刑していたのに対し、バクーのボリシェヴィキはさほど厳格ではなかった。チェーカーがバクーで処刑した人間は2人のみである。
その一方でコミューンは軍事的手段によって強引に産業の国有化を行い、「革命にルールはない」というプロレタリア独裁の原則によってそれを正当化した。コミューンは4月に都市部における不動産の私的所有の廃止を決定。家という家が接収され、住民は過密状態の、あるいは安全性に欠ける新居への移住を強いられた。コミューンの代表にはムスリムが1人も含まれていなかった反面、バクーの赤軍は7割がアルメニア人で構成されていた〔 ISBN 0810835509〕。作家のは、当時のバクーでの赤軍の状況について次のように述べている〔。
6月5日にバクーの赤軍は数で勝るオスマン軍を撃退したが、その後オスマンのの本拠地であるエリザヴェトポリに無謀な攻撃を行い、3週間でバクーへの撤退を余儀なくされた〔〕。7月19日にはツァリーツィンからグリゴリー・ペトロフ率いる騎兵中隊が応援に来たがそれも力及ばなかった。メンシェヴィキ社会革命党右派、そしてアルメニア人のダシュナク党の勢力はバクーにペルシャ戦線のイギリス軍指揮官である将軍を招き、オスマンから都市を防衛してくれるよう交渉を始めた。ボリシェヴィキ、社会革命党左派とダシュナク党の一部はこれに反対したが、7月25日の議決では賛成259票、反対236票と僅差で敗れ、翌日にボリシェヴィキらはコミューンを辞した。しかしその後、彼らは公金の支出に関して報告書の提出を怠ったことで軍用品を横流しした罪に問われ、メンシェヴィキと社会革命党右派が中心となったカスピ海艦隊中央委員会独裁政権によって捕らえられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「26人のバクー・コミッサール」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 26 Baku Commissars 」があります。



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