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バクー : ウィキペディア日本語版
バクー[ちょうおん]

バクー(''Baku'')は、アゼルバイジャン共和国首都カスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島南岸に位置し、市街はバクー湾に面するように広がった港町である。行政的には11の行政区、48の町区に分割されており、2005年時点の総人口は2,045,815人〔Bakı şəhəri - Azərbaycan Dövlət Statistika Komitəsi 〕。アゼルバイジャン最大の都市であると同時に、南カフカース地域でも有数の大都市である。大規模な油田バクー油田)をもち、帝政ロシア時代から石油の生産地として発展してきた。
日本語名のバクーはキリル文字綴りによるロシア語綴り・アゼルバイジャン語(アゼリー語)旧綴り Баку (Baku) に基づくが、アゼルバイジャン語の発音では母音の前で子音 k が軟音化するためカタカナ表記するならば「バキュ」に近く、現在アゼルバイジャンで使われているアゼルバイジャン語のラテン文字正書法では Bakı と綴る。バクーという名前の由来には諸説あるが、最も一般的なものは、ペルシャ語で「風が吹きつけた」という意味の "bād-kūbe"(バード・クーベ)から来ているとする説が一般的である。
気候は晴天が多く、乾燥している。寒気と暖気がぶつかることで起きる強風が時折吹き付け、先述した語源の根拠となっている。海岸は美しく、市街近郊には温泉鉱泉がある。
市街の中心はその南西部にあり、イチェリ・シェヘル (İçəri Şəhər) すなわち「内城」と呼ばれる城壁に囲まれた旧市街と、帝政ロシア時代にその周囲に築かれた新市街とに分かれる。その周囲、北から東にかけての平地から丘陵の斜面一帯にソビエト連邦時代につくられた市街が広がっている。
== 歴史 ==

バクーの地に定住者が存在した痕跡は紀元前の頃のものが発見されているが、都市としてのバクーは5世紀頃に建設されたと考えられている。都市バクーに関する最古の記録は、885年のものであり、その多くはペルシアによるものである。また、油田の存在は8世紀には知られており、10世紀のアラビア人旅行者もバクーの豊富な石油に驚いている。
バクーは、12世紀にこの地方の中心であった内陸部の都市シェマハが地震により破壊されてから都市としての重要性を増し、シルバン・シャー朝の首都となり、港湾都市として栄えた。1501年のサファヴィー朝イスマーイール1世の攻撃以来、度重なるイランの諸王朝の攻撃を受け、1604年のアッバース1世の軍勢によって城も破壊された。イラン支配の後は、ロシアの侵攻を受ける。1723年、ついにバクーはロシアの包囲の前に降伏する。ロシアがザカフカジエへ膨張することに脅威を感じたアーガー・モハンマド・シャーも、1795年にバクーに侵攻して反撃、帝政ロシアガージャール朝の角逐が繰り返される。翌1796年、エカチェリーナ2世の命を受けたロシア軍が侵攻、バクーに駐屯地を設ける。パーヴェル1世の治世になるとロシア軍は撤収するが、アレクサンドル1世はバクーに強い関心を示し再度侵攻、最終的に1813年のゴレスターン条約で、バクーやザカフカスはロシア帝国に併合された。
バクーで大掛かりに油井が掘削されたのは1846年である。1872年にロシアが石油産業の国家独占を廃止し、油井を売却すると、ロスチャイルド家など欧米諸国から石油資本が流入して急速に発展を遂げ、未だペルシア湾の油田が開発されていなかった20世紀初頭の帝政末期には、世界の石油生産の過半を占めるほどであった。この時代のバクーは石油産業から近代的工業都市へと発展を遂げ、ロシア人の実業家、流入してきたアゼリー人アゼルバイジャン人)やアルメニア人の様々な経済・政治・文化活動の中心となった。南方からイスラーム教徒の労働者が溢れ国際都市となった。
アルフレッド・ノーベルは、二人の兄と1878年に『』を設立して油田開発、ナフサ精製、輸送などを受け持って巨万の富を築いた。
十月革命後、バクーはステパン・シャウミャンが主導するバクー・コミューンの支配下となり、アルメニア革命連盟ヒンメトの支援を受けたボリシェヴィキは、多くのアゼリー人イスラム教徒を処刑した。1918年、誕生したばかりのザカフカース民主連邦共和国は早々に分裂、ギャンジャで独立を宣言したアゼルバイジャン民主共和国勢力が、オスマン帝国の支援を受けバクーに侵攻した。進駐していたイギリス軍やボリシェヴィキらは駆逐され、バクーはアゼルバイジャン民主共和国の首都となる。この過程で、1918年3月31日の衝突で、数千人のアルメニア人が報復で殺された。この日はアゼルバイジャンで「虐殺記念日」とされている。1920年、赤軍がバクーに進駐、ここを首都とするアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国が成立した。独ソ戦では、1942年、バクーの油田地帯の占領を狙ってナチス・ドイツ軍が侵攻して来たが、スターリングラードの戦いに重点をおいた枢軸軍の敗北により頓挫した。
ソ連末期、アゼルバイジャン領のナゴルノ・カラバフ自治州において、アルメニアへの帰属を求めるアルメニア人の民族運動が活発化すると、多民族都市バクーも民族紛争に巻き込まれ、多くのアルメニア人がアルメニアへと移住する一方、バクーには新たに多くのアゼルバイジャン人難民が流入してきた。
2000年、バクーの内城は・とともに世界遺産に登録された(城壁都市バクー)。しかし2000年11月25日のバクー大地震で、危機にさらされている世界遺産リストに2003年に登録された。 しかし2009年に改善・復旧が認められ危機遺産リストから脱した。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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