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チェーカー : ミニ英和和英辞書
チェーカー[かー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car

チェーカー : ウィキペディア日本語版
チェーカー[かー]

チェーカーチェカ、 、, )は、ウラジーミル・レーニンによってロシア革命直後の1917年12月20日人民委員会議直属の機関として設立された秘密警察組織の通称である。
ロシア語での正式名称は反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会()で、略称はヴェーチェーカー( )となる。「チェーカー」と呼んだ場合にはこの名称から「全ロシア」が取れることとなる。その管轄がロシア共和国に留まらなかったことからこう呼ばれる場合もあるが、「ヴェー」抜きで呼んだ場合は「全ロシア非常委員会」の各都市の支部を指す可能性もあり、正式名称に沿って「ヴェーチェーカー」と呼ぶ事が好まれる。
ソ連では、チェーカー勤務者や一般に国家保安機関に勤務する者のことをチェキスト( ・非常委員)と呼んだ。西側諸国ではチェキストという名称は「反革命の血で汚れた人物」のことを指す侮蔑語として用いられた。また、チェーカーに限らず、チェーカーの系譜に繋がるGPUKGBの構成員もこう呼ばれた。
以上のような用法はソ連でも使われていたが、言葉の意味合いはかなり異なっていた。チェキストの呼び名は祖国を保衛する重責を担う人々への尊称とみなされており、チェーカーを設立したレーニンも「よきコミュニストはよきチェキストでもある」という言葉を残している。なおソ連崩壊後のロシアでも、ある情報関係者が自分たちを「チェーカーに属している者」と表現し、その場の少なからぬ関係者の同意を得るという一幕があった。
== 歴史 ==
1917年十月革命翌日以降、官僚によるゼネラル・ストライキが拡大した。これに対してボリシェヴィキは恐怖し、ストライキの拡大を食い止める必要に迫られた。12月に入ると、権力の混乱防止のためにボリシェヴィキは十月革命前夜に設立した軍事革命委員会の解体を決めた。いかにこの危機を乗り切るかが焦点となった。
レーニンはフランス革命時の革命裁判所検事であるアントワーヌ・フーキエ=タンヴィルのような人物が必要だと感じていた。12月2日に軍事革命委員会のトップだったフェリックス・ジェルジンスキーを「断固たるプロレタリア的ジャコバン」に指名し、12月6日に彼に反ゼネストのための特別委員会の設立を任せた。レーニンは「サボタージュと反革命と闘うための『例外的な手段』」を取るよう文書で指示した。そして12月20日、ジェルジンスキーは特別委員会設立の草案を人民委員会議に提出・承認を受けた。内容はメンバーの1人マルティン・ラーツィスMartin Latsis)が1922年2月10日に『イズベスチヤ』で公開した。その内容は以下の通りである。
:同委員会を反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会と命名し、ここにそれを承認する。委員会の任務は:
:#誰が引き起こそうとも、全ロシアのすべての反革命運動とサボタージュの企てと行動を監視し、これを撲滅すること。
:#全てのサボタージュ分子と反革命分子を革命裁判にかけ、またその撲滅対策を作成すること。
:#委員会は犯罪阻止に必要な限りの予備審理のみを行う。委員会は以下の三部に分かれる:
:##情報部
:##組織部(全ロシアの反革命分子撲滅闘争の組織のため)と支局部
:##取締部
:委員会は明日正式に発足する。それまでは軍事革命委員会清算委員会が活動する。委員会は印刷物、サボタージュその他、右翼エスエル、サボタージュ参加者、ストライキ参加者に注意する。必要措置として、押収、強制立ち退き、食糧配給券の支給停止、人民の敵のリスト公表などが講じられる。
:全露非常委員会参与会の議長とメンバーは、人民委員会議により任命される。
こうして発足したチェーカーには、10月革命後に解体された帝政ロシアの内務省警察部警備局のメンバーが多数復職した。
レーニンは1918年6月に一時期廃止された死刑を復活させた。
10月革命後に反ボリシェヴィキの西側諸国の干渉によるロシア内戦勃発後、チェーカーはレーニンにより、裁判所の決定なしに、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられた。これが粛清の引き金となる。1919年5月15日、労農国防会議の決定により、チェキストには赤軍兵士と同等の最上級の食糧配給券が支給されるようになった。粛清に反対していた左翼エスエル出身の司法人民委員イサーク・シテインベルクIsaac Steinberg)はチェーカーを自身の監督下に置くよう要求したが、ジェルジンスキーはチェーカーの威信に傷がつくとして拒否し、チェーカーはあくまで党の監督下にあると主張した。
このように、チェキストに政治的な配慮がなされ、レーニンは常にチェーカーを擁護していた。チェーカーは建前上、あくまで党に所属するものとされていたが、実質的にはレーニン個人の直属であったといっても過言ではない。実際、レーニンがチェーカーに反革命に対する具体的な鎮圧方法や監禁・監視の詳細などを指示した文書が多数残されている。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チェーカー」の詳細全文を読む




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