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ロシア内戦 : ミニ英和和英辞書
ロシア内戦[ろしあないせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うち]
 【名詞】 1. inside 
内戦 : [ないせん]
 【名詞】 1. civil war 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

ロシア内戦 : ウィキペディア日本語版
ロシア内戦[ろしあないせん]

ロシア内戦(ロシアないせん、ロシア語 グラジュダーンスカヤ・ヴァイナー・ヴラスィーイ)は、1917年から1922年にかけて旧ロシア帝国領で争われた内戦である〔「ロシア」が何を指すかについては、内戦に至った根本的な問題がある。ウクライナやカフカース、バルト三国、中央アジア等、現在は独立国となっている地域を「本来はロシアの一部である」と主張する立場があり、内戦でもこの思想のもと白軍や赤軍が周辺国・地域(現在の独立国等)を軍事力によって掌握しようとした。ウィキペディアではWikipedia:中立的な観点に考慮し「旧ロシア帝国領とその周辺」という扱いとする。〕。
1917年ロシア革命後に成立したボリシェヴィキ政府は、1918年3月にドイツブレスト=リトフスク条約を締結した。この講和条約はロシア連邦共和国にとって苦渋の選択だった。2月に開始されたドイツ軍の進撃を食い止めることができなかったボリシェヴィキは、現在のバルト三国ベラルーシウクライナにあたる広大な領域をドイツに割譲しなければならなかった。
ロシアに極めて厳しい条件を課したこの条約に刺激され、ロシアの内外で反ボリシェヴィキ運動が活発化し始めた。このようにして発生した内戦の多くは1920年までに終結したが、1922年に至るまで大規模な反乱・蜂起が散発している。シベリア沿海州における白軍政権の崩壊をもって内戦は終結した。

ソビエト連邦歴史学では、慣習的にロシアという言葉を用いず、1917年から1922年にかけての内乱、国内戦、諸外国による軍事干渉といった用語を用いていた。これは、舞台となった地域の大半がその後ソ連領となったこと、ポーランド・ソ連戦争ウクライナにおける民族運動、バスマチ運動中央アジアにおける列強の干渉を含む為である。'' グラジュダーンスカヤ・ヴァイナー・ヴラスィーイ)は、1917年から1922年にかけて旧ロシア帝国領で争われた内戦である〔「ロシア」が何を指すかについては、内戦に至った根本的な問題がある。ウクライナやカフカース、バルト三国、中央アジア等、現在は独立国となっている地域を「本来はロシアの一部である」と主張する立場があり、内戦でもこの思想のもと白軍や赤軍が周辺国・地域(現在の独立国等)を軍事力によって掌握しようとした。ウィキペディアではWikipedia:中立的な観点に考慮し「旧ロシア帝国領とその周辺」という扱いとする。〕。
1917年ロシア革命後に成立したボリシェヴィキ政府は、1918年3月にドイツブレスト=リトフスク条約を締結した。この講和条約はロシア連邦共和国にとって苦渋の選択だった。2月に開始されたドイツ軍の進撃を食い止めることができなかったボリシェヴィキは、現在のバルト三国ベラルーシウクライナにあたる広大な領域をドイツに割譲しなければならなかった。
ロシアに極めて厳しい条件を課したこの条約に刺激され、ロシアの内外で反ボリシェヴィキ運動が活発化し始めた。このようにして発生した内戦の多くは1920年までに終結したが、1922年に至るまで大規模な反乱・蜂起が散発している。シベリア沿海州における白軍政権の崩壊をもって内戦は終結した。

ソビエト連邦歴史学では、慣習的にロシアという言葉を用いず、1917年から1922年にかけての内乱、国内戦、諸外国による軍事干渉といった用語を用いていた。これは、舞台となった地域の大半がその後ソ連領となったこと、ポーランド・ソ連戦争ウクライナにおける民族運動、バスマチ運動中央アジアにおける列強の干渉を含む為である。
== 概観 ==

内乱は主に赤軍共産主義者・十月革命側)と白軍(ロシア右派共和主義者、君主主義者、保守派、自由主義者)の間で戦われた。ウクライナなど、地域によってはこれら両者に、ボリス・サヴィンコフなどの率いる緑軍社会革命党系、農民パルチザン)や、ネストル・マフノ率いる黒軍アナーキスト)、さらには民族主義者が参加する場合もあった。白軍には英仏日米などの協商国(赤軍側からは「干渉国」と呼ばれる)が直接、間接に支援を行っていた。
実際に戦闘が行われた前線は、北西、南方、そして東方の3戦線に分けることができる。その期間についても3期で構成されている。
第一期は十月革命勃発からブレスト=リトフスク条約による休戦までを指す。この期間は、ドン川流域一帯で形成した白軍との間で戦闘が生じ、さらに東部ではサマーラ憲法制定議会議員委員会(,コムーチ)とオムスクの民族主義者政権の2つの政権が誕生していた。

白軍側は複数の兵力が別個に蜂起しており、連携は見られなかった。この中には、チェコ軍団、ポーランド第5ライフル師団、親ボリシェヴィキのラトビアライフル大隊などがあった。
第二期は内戦の鍵を握った期間で、1919年の3月から11月にかけてである。南方からデニーキン指揮する白軍、北西からはユデーニチ軍が、そして東にはコルチャークが勢力を拡大し、それぞれモスクワペトログラードへと向かって進撃していた。しかしトロツキーにより編成された赤軍により6月にコルチャークが、10月にはデニーキンとユデーニチがそれぞれ押し返された。11月中頃までコルチャークとデニーキンの部隊はほぼ四散していた。
第三期はクリミア半島を舞台にした白軍の最後の戦いである。ヴラーンゲリ将軍がデニーキンの敗残兵をまとめ、クリミア半島に立てこもった。しかし、ポーランド・ソビエト戦争が終了すると、全勢力をこの方面へ集中することが可能になった赤軍が白軍を圧倒するようになり、1920年11月に内戦は終了した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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