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細川藤孝 : ミニ英和和英辞書
細川藤孝[こう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [こう]
 【名詞】 1. filial piety 

細川藤孝 ( リダイレクト:細川幽斎 ) : ウィキペディア日本語版
細川幽斎[ほそかわ ゆうさい]

細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)/ 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名歌人。幽斎は雅号。法名を玄旨。
初め室町幕府13代将軍足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い、長岡 藤孝(ながおか ふじたか)を名乗って丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、主君・信長の死に殉じて剃髪し、家督を忠興に譲るが、その後も豊臣秀吉徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者・三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。
== 生涯 ==

=== 幕臣時代 ===
天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員(和泉上守護家細川元有の子で、三淵氏の養子となっていた)の次男として京都東山に生まれる。幼名を萬吉(まんきち)といった。天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護・細川元常(三淵晴員の兄)の養子となったとされる。しかし、これについては異説もある(#系譜)。天文15年(1546年)、将軍・足利義藤(後の足利義輝)の偏諱を受け、藤孝を名乗る。天文21年(1552年)、従五位下兵部大輔に叙任される。
幕臣として将軍・義輝に仕えたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆松永久秀に討たれ、義輝の弟・一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)も興福寺に幽閉されると、兄・三淵藤英らと協力してこれを救出し、近江国六角義賢若狭国武田義統越前国朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走した。当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴することもあるほどだったという。
その後、明智光秀を通じて尾張国織田信長に助力を求めることとなる。永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて入京し、藤孝もこれに従った。藤孝は山城勝竜寺城(青竜寺城)を三好三人衆の岩成友通から奪還し、以後大和国摂津国を転戦した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「細川幽斎」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hosokawa Fujitaka 」があります。




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