翻訳と辞書
Words near each other
・ 竜華駅
・ 竜華駅 (上海市)
・ 竜華駅 (深セン市)
・ 竜虎
・ 竜虎の争い
・ 竜虎の拳
・ 竜蝦
・ 竜蝦礁
・ 竜血
・ 竜血樹
竜角寺古墳群
・ 竜角寺台
・ 竜角寺台小学校
・ 竜角寺浅間山古墳
・ 竜谷大学
・ 竜谷村
・ 竜豊線
・ 竜跳
・ 竜踏駅
・ 竜車


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

竜角寺古墳群 : ミニ英和和英辞書
竜角寺古墳群[りゅう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りゅう]
 【名詞】 1. (1) dragon 2. (2) promoted rook (shogi) 
: [つの]
 【名詞】 1. horn 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [ふる]
 【名詞】 1. used 2. secondhand
古墳 : [こふん]
 【名詞】 1. ancient (mound) tomb 

竜角寺古墳群 ( リダイレクト:龍角寺古墳群 ) : ウィキペディア日本語版
龍角寺古墳群[りゅうかくじこふんぐん]
龍角寺古墳群(りゅうかくじこふんぐん)〔古墳群の名称として、研究者は竜角寺古墳群を用いる例が多い。ここでは2009年2月12日に国の史跡に追加指定された際につけられた名称、『龍角寺古墳群・岩屋古墳』により、龍角寺古墳群とする。〕は、千葉県成田市印旛郡栄町の、印旛沼北東部の下総台地上に、6世紀前半から7世紀にかけて造営された古墳群である。
== 古墳群の概要 ==

龍角寺古墳群は、現在のところ114基の古墳が確認されている〔研究書によっては113基とするものもある。ここではちばの教育 国史跡の追加指定及び名称変更について に基づき、114基とする〕。古墳群の中には、龍角寺参道沿いに中世から近世にかけて造られたと考えられている塚が数多くあり、見かけ上古墳との区別が難しいため、数については不確定な要素が残っている〔千葉県立房総風土記の丘『竜角寺古墳群測量調査報告書』(1982)p.64〕。
龍角寺古墳群は前方後円墳が37基、方墳が6基、円墳71基で構成されている〔広瀬(2009)p.126〕。しかし確認されている前方後円墳の多くが、円墳に短小な方形部が付く帆立貝形古墳に類似したもので、現在円墳とされている古墳の中からも、今後発掘調査などが進めば前方後円墳が増える可能性がある。また築造当時は方墳であった古墳の一部も、墳丘の改変などで今は円墳のようになっているものもあると考えられ、方墳の数も増える可能性がある〔竜角寺古墳群 〕。
龍角寺古墳群は所属する古墳の一部しか調査発掘されておらず、まだ明らかになっていない点が多いが、古墳時代前・中期に築造された古墳は見当たらず、6世紀以降の古墳時代後期にその築造が開始されたと考えられている〔千葉県立風土記の丘『房総風土記の丘ガイドブック』(1999)、p.40
、白井(2009)pp.4-7〕。現在のところ龍角寺古墳群の中で最も古い時期に築造されたと考えられている古墳は帆立貝形古墳である101号墳で、検出された埴輪の形式などから6世紀第二四半期に築造されたと見られている〔萩原(2007)pp.126-129〕。その後7世紀にかけて龍角寺古墳群では古墳の造営が続いた。
古墳群を構成する古墳の多くは小型で、前方後円墳では全長20-30メートル、円墳では直径10-20メートルのものが多い〔竜角寺古墳群 、萩原(2007)p.126〕。龍角寺古墳群では当初、小型の前方後円墳や円墳が造られていたと考えられるが〔栗田(2005)p.158、広瀬(2007)pp.72-73〕、7世紀前半以降、浅間山古墳と、日本第二位の規模を誇る方墳である岩屋古墳という印旛沼周辺地域で最も大きい古墳が造営された。これは印旛沼周辺地域の地域の主導権が、公津原古墳群を造営した首長から龍角寺古墳群を造営した首長へと移ったことにより、浅間山古墳、岩屋古墳と地域を代表する大きさの古墳が龍角寺古墳群内に造営されるようになったとされる〔萩原(2007)p.126〕。また龍角寺古墳群は複数の首長が同一の墓域を利用していたものと考えられており、浅間山古墳や岩屋古墳のような地域を代表する首長を葬った盟主墳にあたる古墳と、その下に位置する首長墳が同一時期に築造されていたものと見られている〔広瀬(2004)p.258〕。
浅間山古墳は7世紀初頭に築造されたとの説と7世紀第二四半期に造られたとの説があり、論争になっている。いずれにしても浅間山古墳は前方後円墳の中でも最後の時期に造営された古墳のひとつと考えられている。龍角寺古墳群では浅間山古墳の造営後は、岩屋古墳、みそ岩屋古墳など方墳が造営されるようになった〔竜角寺古墳群 、栗田(2005)pp.158-159、田中(2009)pp.87-93〕。
7世紀後半、龍角寺古墳群の北方に龍角寺が造営される。また古墳群の北東には埴生郡衙跡と考えられている大畑遺跡群がある。これは6世紀の古墳時代後期以降、龍角寺古墳群を造った首長は、7世紀後半には龍角寺を建立し、そして律令制が成立した後も郡司となってその勢力を保ったことを示唆している〔ちばの教育 国史跡の追加指定及び名称変更について 、白井(2009)pp.26-27〕。
龍角寺古墳群を造営した首長は、かねてから国造本紀の記述などから印波国造と考えられており、最近の研究では大生部直氏ではないかと見られている〔川尻(2001)p.14、川尻(2007)p.159、大川原(2009)pp298-307〕。龍角寺古墳群は住宅地の造成や道路建設によって消滅した古墳もあるが、古墳群に属する古墳の多くが房総のむら内にあって比較的良好な状態で保存されており、古墳時代後期から終末期古墳にかけての古墳の造営状況を知ることが出来る上に、地方首長による寺の造営、そして律令制の時代には郡司となっていくまでの経過を見ることができる貴重な遺跡として評価されている。1941年に岩屋古墳が単独の古墳として国の史跡に指定された。2009年2月12日には龍角寺古墳群に所属する古墳のうち浅間山古墳など92基が追加指定され、史跡の指定名称が「龍角寺古墳群・岩屋古墳」に変更された〔ちばの教育 国史跡の追加指定及び名称変更について 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「龍角寺古墳群」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.