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黒田清隆 : ミニ英和和英辞書
黒田清隆[くろだ きよたか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くろ]
 【名詞】 1. (1) black 2. (2) dark 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

黒田清隆 : ウィキペディア日本語版
黒田清隆[くろだ きよたか]

黒田 清隆(くろだ きよたか、〔学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「黒田清隆」、御署名原本における本人の署名は「黒田清隆」、『枢密院高等官履歴』における枢密院書記による氏名手記も「黒田清隆」である。印刷物では本字に統一するという慣例に従い、印刷局刊『職員録 明治21年(甲)』(1888年3月31日現在)における内閣総理大臣名の表記は「黒田淸隆」、同時代の新聞紙上での表記は「黒田淸隆」ないし「黑田淸隆」である。〕、天保11年10月16日1840年11月9日) - 明治33年(1900年8月23日)は、日本武士薩摩藩士)、陸軍軍人政治家階級陸軍中将位階勲等爵位従一位大勲位伯爵通称仲太郎了介
薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。
== 生涯 ==

=== 生い立ちと幕末の活動 ===
天保11年(1840年)に、薩摩国鹿児島城下(現在の鹿児島県鹿児島市新屋敷町)で薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。なお、明治期に子爵になった黒田清綱の家(記録奉行や教授を輩出していた。代々小番。)と同族であるが、遠縁であるという。
長じて砲手になった。文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人として居合わせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。なお、黒田自身は示現流門下でも有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝している。
文久3年(1863年)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。慶応2年(1866年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷吉之助桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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