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魯迅 : ウィキペディア日本語版
魯迅[ろ じん]

魯迅(ろじん、ルーシュン、 1881年9月25日 - 1936年10月19日)は、中国小説家翻訳家思想家である。本名は周樹人()で、は豫才。浙江省紹興市士大夫の家系に生まれた〔藤井(2011年)25ページ〕。父は周鳳儀、母は魯瑞、弟に文学者・日本文化研究者の周作人、生物学者の周建人(1888-1984)がいる〔藤井(2011年)27ページ〕。中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家である〔夏(2011年)11ページ〕。その作品は、中国だけでなく、広く東アジアでも愛読されている〔藤井(2011年)まえがき1ページ〕。日本でも中学校用のすべての国語教科書に彼の作品が収録されている〔。
== 生誕から日本留学時代まで ==
1881年にやや貧困ではあるが、学問を尊ぶ伝統をまだ残している家の長男として生まれた〔夏(2011年)13ページ〕。18歳で南京にあった理系の学校に入学、4年間を過ごす〔井波(2005年)192ページ〕。その間、厳復が訳した『天演論』などを読み、進化論をはじめ新しい思想にふれる〔。1902年、国費留学生として日本に留学した〔。国の人々を救うためには最も良いと考え、医学を専攻したが、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれた〔。ニーチェダーウィンのみならず、ゴーゴリチェーホフアンドロノフによるなどロシアの小説を読み、後の生涯に決定的な影響を与えた〔。ヴェルヌの科学小説『月界旅行』、『地底旅行』を翻訳する〔。1904年仙台医学専門学校に最初の中国人留学生として入学し、学校側も彼を無試験かつ学費免除と厚遇した〔藤井(2011年)55ページ〕。特に解剖学の藤野厳九郎教授は懇切丁寧に指導し、彼もその学恩を終生忘れなかった〔。しかし、彼は学業半ばで退学してしまう〔。当時、医学校では講義用の幻灯機で時折日露戦争1904年から1905年)に関する時事的幻灯画を見せていた〔。このとき、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、小説家を最終的な自分の職業として選択した〔夏(2011年)14ページ〕。その幻灯写真には中国人がロシアのスパイとしてまさに打ち首にされようとしている映像が映し出されていた〔。そして屈辱を全く感じることなく、好奇心に満ちた表情でその出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があった〔。のちに、はじめての小説集である『吶喊』(1923年)の「自序」にこの事件について以下のように書いた〔。
その後、この時とばかり東京で雑誌の出版事業を始め、教訓的な内容の散文を文語体で書いた〔夏(2011年)15ページ〕。それは中国人にダーウィンの進化論や英雄出現を求めるニーチェの哲学を啓蒙する狙いであった〔。これらの散文は、後に『墳』と名付けられた散文集に収められた〔。また、周作人が編集した2巻からなる『域外小説集』のために3編の外国小説(アンドレエフの2編とガーシンの1編)を翻訳した〔。しかし『域外小説集』の売れ行きは伸びず、各巻20冊ほどだったという〔。文学出版事業の失敗に落胆した彼は、1909年に帰国した〔。
7年間の日本留学の間、日本人の親友は一人もできなかった。辛うじてある教師(『藤野先生』)を尊敬しただけだった。帰国後も、民族や国家の大原則にかかわる問題が生じた際には、必ず中国側に立ったと孫利川は述べている〔莫邦富『中国人は落日の日本をどう見ているか』(1998年 草思社)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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