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高畠藍泉 : ミニ英和和英辞書
高畠藍泉[たかばたけ らんせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [はたけ]
 【名詞】 1. plowed (cultivated) field (ploughed) 2. kitchen garden 3. plantation
: [あい]
 【名詞】 indigo 

高畠藍泉 : ウィキペディア日本語版
高畠藍泉[たかばたけ らんせん]
高畠 藍泉(たかばたけ らんせん、天保9年5月12日1838年7月3日) - 明治18年(1885年11月18日高畠藍泉 とは - コトバンク 〕)は、ジャーナリスト小説家で、江戸戯作者世代と新時代の間の明治10年代に大家として重きを成し、三世柳亭種彦を名乗った。「明治最初の文壇小説家」〔柳田泉「高畠藍泉伝」〕とも言われる。幼名瓶三郎、家督相続後は求徳、のちに政(ただす)。別号として、藍泉、一葉舎、甘々坊、甘阿、凹得、紫翠山房など。戯号に転思堂、転々堂、転々堂藍泉、愛雀軒、足薪翁。晩年には聴香楼主人がある。
画、茶、俳諧、演劇に詳しく、柳亭種彦に私淑して、それに倣った文体で活躍した。明治維新後、社友あるいは記者として、また「柳亭派の頭目」たる戯作者として、「平仮名絵入」「読売」「芳譚雑誌」「絵入朝野」「東京絵入」「歌舞伎新報」などで活動し、明治10年代の代表的作家とみなされるまでになった。明治10年(1877年)には日本初の夕刊紙「東京毎夕」を創刊している。出世作は明治12年(1879年)刊の「巷説児手柏(こうせつこのてがしわ)」。「蝶鳥筑波裾模様(ちょうとりつくばのすそもよう)」のようにいささか古風な仇討ちものも執筆している。
== 経歴 ==
天保9年(1838年)江戸幕府御本丸奥勤のお茶坊主衆の家に、高畠求伴の次男、三男一女の3番目として浅草に生まれる。5-6歳ごろから和漢の小説や画に親しみ、その後種彦に私淑する。また高橋波藍に就いて画を学び、この時の画号を藍泉とした。文久3年、父の死去とともに家督を継ぐが「務め嫌ひ」(新聞記者奇行伝)のため、弟に家督を譲り「画工」となる。
明治5年(1872年)3月、東京日日新聞が創刊され、藍泉は画工をやめその記者となる。また転々堂の号で草双紙をいくつか出版。明治8年(1875年)、処女作「怪化百物語」を出版し、また「平仮名絵入新聞」が創刊されその編集長となるが、社主との意見の相違から12月に退社し、直後に読売新聞(日就社)に入社。このとき藍泉は、同社で校正係をしていた22歳の饗庭篁村を見出し編集記者に引き立てている〔畑實・中村友編「饗庭篁村年譜」(稲垣達郎編「根岸派文學集」『明治文學全集』第26巻、筑摩書房、1981年4月)。〕。明治10年(1877年)には日就社を退社して、日本初の夕刊紙「東京毎夕」(日昌社)を創刊したが、経営が不振で数ヶ月で手放す。その後、読売新聞、東京曙新聞あらため東洋新報など様々な新聞に関わり、大阪の大東日報を1年ほど務めて明治16年(1883年)に東京に戻って浅草に居し、以降は特にどこにも入社することなく、当時の文壇の代表的作家として様々な新聞や雑誌に寄稿した。明治18年(1885年)、病が重くなり床に伏したまま執筆を続けるが、11月18日に死去。戯墨院柳誉藍泉居士。浅草松葉町正定寺に眠る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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