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養徳院 : ウィキペディア日本語版
養徳院[ようとくいん]

養徳院(ようとくいん、永正12年(1515年)- 慶長13年10月16日1608年11月23日))は、戦国時代室町時代後期)・安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。池田恒利の妻。実名は不明〔当時、一般に女性の実名を記録する習慣がなかった。〕で、養徳院は法名。
織田信長乳母となってからは大御ち(おおおち)〔漢字で書けば「大御乳様」だが、乳は「ち」と読み、「おお・お・ち・さま」。”御乳”は貴人の乳母の意味。目上にあたる織田信長、信雄、豊臣秀吉などの文書には「大御ち」とのみある。〕様とも呼ばれた。
==略歴==
永正12年(1515年)、池田政秀の娘として近江または美濃で生まれた。父の政秀には嫡子が無かったため、滝川貞勝の子・恒利を養嗣子として迎え、その正室となった。
天文5年(1536年)、恒興を出産した〔。父と夫の主君である戦国大名織田信秀嫡男吉法師(後の織田信長)は当時3歳であったが、乳母の乳を噛み破る癖があって困らせていた。しかし彼女が乳母となってからはこれが直ったと云う。以来、「大御ち」と称された。
天文7年(1538年)の恒利の死後、寡婦となってからは出家して養徳院を名乗るようになったが、信秀の側室となって、娘・小田井殿(栄輪院)〔信長の異母妹、恒興の異父妹。織田信直正室)〕を出産した。天文14年(1545年)には10歳の恒興が信長の御伽小姓として召し抱えられ、信秀没後も母子共に親しくし、元亀4年(1573年)6月18日 、信長より知行150貫を与えられている。
天正12年(1584年)、恒興が小牧・長久手の戦いで戦死した後には豊臣秀吉より特に慰めの手紙を与えられ、天正17年(1589年)11月1日 、秀吉より美濃国方県郡長良に800石の隠居地を知行されて、移り住んだ。
長寿であり、慶長13年(1608年)10月16日、94歳で死去。戒名は養德院殿盛嶽桂昌大姉(養徳院殿盛岳桂昌大姉)。
紀州高野山に葬られた。位牌所は備前曹源寺。京都妙心寺塔頭護国院に木像があったが、護国院焼失後は盛岳院に移され、現在は岡山県国清寺にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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