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雪舟 : ミニ英和和英辞書
雪舟[せっしゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ゆき]
 【名詞】 1. snow 
: [しゅう, ふね]
 【名詞】 1. ship 2. boat 3. watercraft 4. shipping 5. vessel 6. steamship

雪舟 : ウィキペディア日本語版
雪舟[せっしゅう]

雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) - 永正3年8月8日(諸説あり)(1506年))は、室町時代に活動した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、は「等楊(とうよう)」と称した。
備中に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移る。その後、遣明船に同乗して中国()に渡り、李在より中国の画法を学んだ。
現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。
また、現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高い評価を受けているといえる。このほか、花鳥図屏風など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。代表作は、「四季山水図(山水長巻)」「秋冬山水図」「天橋立図」「破墨山水図」「慧可断臂図」など。弟子に、秋月、宗淵、等春らがいる。
== 生涯 ==

応永27年(1420年)、備中赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・文芸の分野を担っていた。10歳頃京都相国寺に移り、春林周藤に師事、禅の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。禅にも絵にも、当時最高の師を持ったということは、雪舟もまたよほどの人物だったに違いない。ことに水墨画は禅とともに起こった芸術である。描くことはまた、禅の修行でもあった。
享徳3年(1454年)頃周防に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市天花【てんげ】)を構える。寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。これ以前は拙宗等楊と名乗っていたようで、拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はないが、拙宗と雪舟の活躍時期が重ならないこと、両者の溌墨系山水画を詳細に比較検討した結果、共に飛躍がありつつも共通性が認められることから、同一人物説が定説となりつつある〔河合正朝 「「拙宗」・「雪舟」、「雪舟等楊」 ─室町時代水墨画研究の再検討をあたって」、『墨の彩 ─大阪・正木美術館三十年』図録所収、根津美術館、1998年。島尾新「「山水長卷」以前」、『國華 <特輯>雪舟(上)』1275号所収、2002年。ただし、当時「拙宗」は「せつじゅう」と発音された可能性があり、江戸初期の画伝書『丹青若木集』では「拙宗」を独立した画人として取り上げ、『本朝画史』でも等楊を等楊に改めた可能性に触れつつも実否を知らずとし、やはり「拙宗」は別項を立てている。これらの点から、同人説は安易な解釈だとして、拙宗は雪舟と同時代で周防と関係をもった老成した画人、「等揚」印の作品は、雪舟には見られない軽妙さがあることから後世の別の画人とする説もある(金澤弘 「雪舟との出会い」京都国立博物館編集『学叢』32号、2010年)。〕。
応仁2年(1468年)に遣明船へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究した。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得る。(以後、雪舟の作品の署名には度々この称号を書き入れている)更に北京に赴き、政府の建物に壁画を書いて、大いに評判になったという。弟子に送った「破墨山水図」にある文面に、「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩集文や叙説を再認識した」と書かれている様に、明の時代の画家よりも夏珪李唐等の宋・元時代の画家に興味を持ち、模写して勉強した。(彷夏珪山水図・彷李唐牧牛図、何れも重文)大陸の自然は、雪舟に深く影響した。「風景こそ最大の師」と悟った様に、彼は帰路、揚子江を下りつつ貪欲に各地の風景を写生した。(雪舟の書いた風景画の景観は、現在、中国の各地に今も残っている)文明元年(1469年)に帰国し、周防のほか豊後石見で創作活動を行う。文明13年(1481年)秋から美濃へ旅行。文亀元年(1501年)頃には天橋立に赴き作品を残している。
没年は確実な記録はないが永正3年(1506年)に87歳で没したとするものが多い。文亀2年(1502年)とする説もある。命日も8月8日(『古画備考』)、9月16日(雪舟伝)など諸説あり、最期の地は石見国・益田の大喜庵とされ、雪舟と親交があったとされる益田兼堯の子孫・益田牛庵(元祥)執筆の「牛庵一代御泰公之覚書」で「雪舟(中略)極老候而石見之益田へ罷り越され彼地落命候(後略)」(雪舟…老い極まり石見益田へ参り彼の地で落命する…)と有る。
雪舟の生涯には謎とされる部分が多い。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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