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陸奥広吉 : ミニ英和和英辞書
陸奥広吉[むつ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りく, ろく]
 (adj-na,n) six (used in legal documents)
: [おく]
 【名詞】 1. interior 2. inner part 

陸奥広吉 ( リダイレクト:陸奥廣吉 ) : ウィキペディア日本語版
陸奥廣吉[ひろ]

陸奥 廣吉(むつ ひろきち、1869年4月16日明治2年3月5日〉 - 1942年昭和17年〉11月19日)は、日本華族外交官教育者。駐ベルギー特命全権公使、鎌倉女学院校長。爵位伯爵陸奥宗光の長男であり、次男・陸奥潤吉(後に古河潤吉古河市兵衛の養子)、長女・陸奥清子の兄に当たる。
== 略歴 ==
大坂紀州藩藩邸にて紀州藩士・陸奥宗光の長男として生まれる。紀州藩士の子弟は胆力を養うために刑場に連れていかれ、幼いころから斬首や他の処刑の現場を見るなどの教育を受けた。晩年のインタビュー「父陸奥宗光を語る」では、広吉は、父親の外交官としての手腕を評して「『イエス』よりも多く『ノー』と云った。」と答えている〔杉山427 〕。
中津藩の屋敷の中に塾舎があった慶應義塾に紀州藩がその費用を負担して、紀州藩出身者の寄宿のための「紀州塾」が設置されると、藩士の岡本柳之助三宅米吉鎌田栄吉らと上京して慶應義塾(現・慶應義塾大学)に入塾。明治38年(1905年)12月に慶應義塾特選塾員となる〔慶応義塾五十年史296 〕。明治20年(1887年)にイギリスに留学しケンブリッジ大学に入学、次いでロンドン法学院を卒業して法廷弁護士(バリスター)の称号を受けて明治27年(1894年)に帰国。その間、広吉は父から送られた渡米資金を受け取りに長明治22年(1889年)の夏、父が公使をしていたアメリカで夏休みを過ごすことになり星亨を知る。渡英中にエセル・パッシングハム(和名はイソ)と交際し、紆余曲折を経て明治38年(1905年)に結婚〔下重暁子『純愛 エセルと陸奥廣吉』講談社〕。
明治28年(1895年)に外務省に入省し通訳官となる。明治30年(1897年)に父宗光が死去し、伯爵の爵位を襲爵。明治31年(1898年サンフランシスコ領事として米国に赴任するが、病にかかる。イギリス大使館一等書記官を経て、明治40年(1907年)駐英臨時代理大使となる。他、北京ローママルセイユなどに赴任。明治43年(1910年)に開催された日英博覧会に事務官として開催に尽力。
日英博覧会の世話役という大役を果たした廣吉は明治43年(1910年)、日本に帰国。大正3年(1914年)、特命全権公使に進み、ベルギー駐在となったが、病気のためまもなく退官。当時、陸奥家の邸宅は東京府高輪にあったが、療養の地として大正元年(1912年)に鎌倉に転居。以後は、祖父の伊達千広の教育などに関する社会普及や弟の関係する古河財閥古河家古河鉱業の支援、史跡保存、風景美化などに尽力した。また大きな援助のもと、鎌倉女学院(当時は鎌倉女学校)を設立した。社会事業家として社団法人「鎌倉同人会」、や「雨潤会」を発足させるなど文人として活動した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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