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鈴木眞年 : ミニ英和和英辞書
鈴木眞年[すずき まとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すず]
 【名詞】 1. bell 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

鈴木眞年 : ウィキペディア日本語版
鈴木眞年[すずき まとし]
鈴木 真年(すずき まとし、鈴木眞年とも。天保2年(1831年)- 明治27年(1894年4月15日)は日本の江戸時代末期から明治時代にかけての系譜研究家・国学者。初めは紀州徳川家に属して系譜編輯事業を担当、明治維新後は弾正台に属して新政府の下での系譜編纂事業に就く。のち、宮内省司法省文部省陸軍省と所属を変遷しながらも、この間に系譜編纂を継続し公的・私的いずれの立場においても多数の系譜集を編み世に送った。
== 生涯 ==
1831年(天保2年)、江戸神田鎌倉河岸〔のちの神田鎌倉町・現在の東京都千代田区内神田の鎌倉橋交差点付近一帯の古地名。〕に煙草商橘屋の主・鈴木甚右衛門(今井惟岳)の嫡子として生まれる。
1847年弘化4年)17歳、病弱の故に紀州熊野本宮に入り静養する。翌年には竹亭と号す。この頃、「古代来朝人考」〔これは前掲の参考文献 『鈴木眞年傳』に所収である。〕・「御三卿系譜」の草稿を書き上げる。
1849年嘉永2年)19歳、静養を終えて江戸に戻り旗本家臣の娘と結婚するが旬日〔元の意味は10日間のことだが、きわめて短い期間のこと。〕で離婚となる。父の許しを受け、家督を次弟の廣吉に譲り上野国奥山〔現在の群馬県甘楽郡下仁田町大字東野付近の山中か。〕にて薙髪し出家する。号・不存。
1858年安政5年)28歳、父甚右衛門死去につき、仏門修行を止めて還俗し源牟知良と改名、新田愛氏と号す〔鈴木眞年の先祖が清和源氏新田氏の末裔という伝承に因む。〕。しかしまた御嶽教に入門する。
1860年万延元年)30歳、上総国久留里藩藩医安西一方の娘信子と結婚。この年、御嶽教の権大教正中教教監に任命される。
1861年文久元年)31歳、栗原信充に師事して系譜学を学ぶ。
1865年慶応元年)35歳、紀州和歌山藩に招かれ藩士となり、同藩の系譜編集事業を任される。住居を熊野本宮に定めたために、紀州熊野大社の関係事業にも関与した。これより、明治維新までの4年間に織田家系草稿を初め、諸系譜草稿・諸家譜草稿を相次いで書き上げる。
1869年(明治2年)39歳、この年7月に新政府の弾正台が設置されたため、紀州和歌山藩を辞してこれに奉職(月俸50圓、弾正大疏)。
1871年(明治4年)41歳、11月8日宮内省に異動し内舎人になる。俳号・松柏を称す。
以後、1891年(明治24年)61歳で東京帝国大学を退官するまで約20年間を政府官吏を勤務しながら、幾多の諸系譜の編纂事業と東京帝国大学・交詢社等の教鞭を取った。退官後は国学校の設立を計画し、その設立運動を展開した。また、熊野大社の復興にも尽力した。
1894年(明治27年)64歳、4月15日大阪市南区東清水町〔現・大阪市中央区東心斎橋付近。〕397番地の住居で胃弱のため死去。東京の雑司ヶ谷墓地に葬られた。法名、松柏院頼譽天鏡眞空居士。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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